東京首都となる

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この市民の喜びとは別に、あくまで東西二京の建て前から、明治天皇は明治元年十二月八日東京を出発、京都に帰られたが、これは京都の市民感情の動揺をふせぐためでもあった。翌二年三月二十八日再び東幸、東京城を皇城と改め、以来二度と京都に戻ることはなく、東京は事実上の首都となったのである。

 しかし、たとえ明治天皇が東京にとどまられるようになっても、すぐに東京が急速に人口を増し発展するというところまではゆかなかった。この二年以降、明治天皇が京都に戻られなかったことは、事実上の首都として、東京の恢復を速かにし、人口を増加させる原動力となったことは否定できない。当初は政府としても、東京を表面は首都として、重点施策を行なうという考えはなく、東西を同等にみて、全国の力を平均させるといったような考えであった。首都東京を唯一のものとして、文明開化の見本のような欧米文化の吸収の主体としての都市施設をするようになっていくのは、廃藩置県後になっていちじるしくあらわれるのである。