町奉行支配の土地が、大体最初東京府のおかれた地域であるとすれば、代官支配の地はどうであったか。代官は三人が江戸の周辺を分担しておさめていた。維新後、この代官を武蔵知県事としたが、これは武蔵県がおかれたのでなく、三人の代官をこうよんだだけで、支配地は恐らく旧のままの地域であったろう。元年の六月十九日山田政則(二年四月十日より宮原忠英)元年六月二十九日松村長為(二年八月八日より古賀一平)元年七月十日桑山効(二年十二月二十三日より河瀬秀治)の三人が武蔵知県事になり、十一月五日より各自大宮県(のち浦和県)・品川県・小菅県が、その支配地に設けられるよう準備するように命ぜられたらしいが、この三人の支配地域にさしたる変動がなかったためか、すぐに三県が設けられることはなく、太政官布達よりずっと遅れて二年一月十三日に小菅県、一月二十八日大宮県、二月九日に品川県が設置されたのが実情のようである。しかし、県庁の印はこれより以前に作られたとみえ、これ以前に県印のおされたものがある。
品川県の出発する四日前の明治二年二月五日、行政官より「府県施政順序」が布告された。知府県事の職掌は(1)平年租税の高を量り、其府県の常費を定めること。(2)議事の法を立てること。(3)戸籍を編制し戸伍組立のこと。(4)地図を精覈(せいかく)すること。(5)凶荒予防のこと。(6)賞典を挙ること。(7)窮民を救うこと。(8)制度を立てて風俗を正すこと。(9)小学校を設けること。(10)地方を興し富国の道を開くこと。(11)商法を盛んにし漸次商税をとりたてること。(12)租税の制度を改正することなどであった。
維新政府の新しい日本をおさめる方針がここに明示されたといってよい。しかし、具体的にこの方針にそって県政が動き出したのは、二年六月の版籍奉還を契機として、官僚支配機構の整備をいそぎ、七月に中央地方の政府機関の職員令が出てからのことといってよい。
旧代官(知県事) | 就任年月 | 東京府に移管した後の地名 | 新県設立年月日 | |
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1 | 山田政則 | 明治1.6.19 | 大宮県(浦和県) | 明治2.1.28 |
宮原忠英 | 明治2.4.10 | |||
2 | 松村長為 | 明治1.6.29 | 品川県 | 明治2.2.9 |
古賀一平 | 明治2.8.8 | |||
3 | 桑山効 | 明治1.7.10 | 小菅県 | 明治2.1.13 |
河瀬秀治 | 明治2.12.23 |