江戸時代は人別帳によって、戸籍上の把握が行なわれていた。それは身分別、支配別による編成で、一つの地域の全人口を把握できる性質のものでなかった。そうした点で江戸の人口は町方のみに調査が行なわれ、武家人口は全くわからなかった。
維新変革後、身分制度の崩壊は、無籍者、多くの「脱籍無産の徒」を増加させたが、その取締りの強化とともに、王政復古のために働いた脱藩の士は、旧地に復させた。一方庶民に対しては、無産の徒に生業をあたえ、無頼の徒に正道を歩かせるためには、まず、戸籍の編成からやってゆく基礎がためが必要であるとして、戸籍編成の上の行政区画として、従来の村別組織を改め、新しい番組制度を設けることとした。
旧朱引の東京府の市街地は五〇番組にわけ、名主の支配機構を改め、中年寄・添年寄といった準官吏的機構に名主を組み入れたが、二年六月京都府の作った「村庄屋心得条目」をなるべく各県とも見ならうようにと通達され、品川県でも、それに準じて番組制度に転換したが、やはり二年九月の各村々の旧慣はそのまましばらく存続という政府通達どおり、あまり改革するということなく、ただ番組に組分けすることに重点がおかれていた。
品川県内は大体江戸時代の村組合を尊重して、親村のもとに、いくつかの村々が組合を組織した。その組は一番から二四番に分れていた。今その親村を示すと、どんなに広い地域にわたって品川県があったかがわかる。一番北品川宿、二番不入斗(いりやまず)村、三番町屋村、四番中目黒村、五番下北沢村、六番大宮前新田、七番牟礼(むれ)村、八番上布田(かみふだ)宿、九番下小金井村、十番府中宿、十一番熊川村、十二番五日市村、十三番西分村、十四番下藤沢村、十五番山口町屋村、十六番所沢村、十七番上内間木村、十八番上白子村、十九番下安松村、二十番田無村、二十一番中野村、二十二番中荒井村、二十三番角筈(つのはず)村、二十四番内藤新宿村が、各組合番組村々の親村である。今の品川・大田・世田谷・目黒・渋谷・新宿・中野・練馬・杉並の各区から、都下の北多摩・西多摩などにかけてのほか、埼玉県の一部を含んでいる。
このうち、当時一番組は親村は北品川宿で、惣代は正作、組合村の名をあげると、南品川宿・同猟師町・北品川宿・歩行新田・利田新田・二日五日市村・品川台町・同本立寺門前・同了真寺門前・同宝塔寺門前、(南品川)妙国寺門前・海雲寺門前・海蔵寺門前・海晏寺門前・品川寺門前、長徳寺門前・願行寺門前・妙蓮寺門前・貴船門前・常行寺門前・本光寺門前、(北品川)善福寺門前・正徳寺門前・稲荷門前・東海寺門前・清福寺門前・養願寺門前となっている。
二番組は親村は不入斗村で、惣代は重蔵、大体大森と蒲田の一部を含んでいるが、これに大井村・上蛇窪村・下蛇窪村が属していた。四番組は親村は中目黒村で惣代は金吾、目黒から池上辺であるが、これに小山村・桐ケ谷村・中延村・谷山村・戸越村・上大崎村・下大崎村が含まれていた。さらに三年七月二十五日には、品川一八ヵ寺の門前町を南・北品川・歩行新宿の三宿に合併し、従来の行政管轄の差異をなくし一本にした。
以上の三組に今の品川区の村々が属していたといえる。
品川県は、近世の延長のような形での支配であったにしても、都市的な品川宿や新宿から、純農村である所沢などまで様々な村を含んでいたから、新しい県政を何かやろうとすれば、どうしてもその地域差による抵抗がおきるのもやむを得ないことだった。