このような広範囲な地域にわたる品川県の県庁所在地はというと、明確にはいえない。
品川県が出発した際、県庁はまだきまってなく、旧日本橋馬喰町に代官屋敷のあった関係からか、あるいは東海寺に県庁をおこうという考えがあってのことか、とにかく一応、日本橋浜町河岸近く、今の明治座の近く、小笠原弥八郎邸というが、そこが維新の変転で空屋になっていたのか、とにかく、浜町に品川県事務所を設け、臨時にそこが県庁の役割りを果たしていた。古老の話によると、はじめ東海寺を県庁にすることとし、そのため、本堂をこわし修覆して県庁らしく改築しようとしたが、完成をみぬうち品川県が廃止になってしまったのだという。
品川県庁は完成せず、浜町の品川県事務所で県の事務がとられていたといっても、県の全職員がそこにいたのではあるまい。二年七月の記録では、知事(又は権知事)以下、大参事・少参事・大属(権大属)・少属(権少属)・史生といった組織になっているが、これだけの広い範囲の県内、旧慣通り、村々は名主が責任者といっても、どうやって管内の行政を処理していたか、判明しない。
ただ、県内治安状況も維新の変転に当たって、あまりよくなかったことは事実で、けっして品川宿内にばかりにいろいろの事件が発生したわけでなく、その他の村々も、種々な事件があったという。そのため下大崎村の旧仙台藩邸内に県としての徒刑場を設けたりしたといわれている。