品川県門訴事件

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明治二年の二月五日、行政官から府県施行順序が布告された。そのうち知府県事の主務として、①租税の高をはかり常費を定める。②議事立法 ③戸籍 ④地図作製 ⑤凶荒対策 ⑥掌典 ⑦救民 ⑧風俗矯正 ⑨小学校設置 ⑩地方賑興 ⑪商業 ⑫租税賦課などが強調された。

 問題は、特にないといってよかったが、この凶荒対策としての備荒貯蓄(囲穀とか社倉とよばれ、旧幕府時代より行われていた所もあり、特別新しい制度ではなかった。)の令に対し、品川県知事の古賀一平(定雄)のとった態度が物議をかもした。それは旧来の囲穀は出資した人々の管理運用にまかせていたのに、品川県では、すべて、村人の手を離れて一括品川県庁・役所に集め、品川県の命令で出すという官僚的なやり方だった。

 明治二年二月に品川県が出発したが、すぐこの方針がとられたのではない。十一月になって、県庁の役人が親村へ出張してこれをいい渡している。もちろん半強制的な命令で、金か米でということも強調したようである。

 それは持高五石以上は一石につき米二升の割、五石以下の者は、これを暮らしむきで上中下に分け、上は一軒に四升、中は三升、下は一升五合宛を出せというのであった。しかし、この年は関東・東北一帯は凶荒に見舞われ、農民は逆に生活に苦しむ状態にあった。そこへもって来て、各村々の農民の自主管理でない、品川県が直接管理するという社倉なので、農村のうちにはこれを税金とみるものが少なくなく、税金の上にまた税金といった感じをいだいた。

 なかでも、武蔵野新田十二ヵ村と田無新田の農民たちにとっては大きな負担であった。新田では同じ五石以上の持高の者でも、新田でない村の二石所持の者より劣るくらいで、その上凶作で、日常の食事にさえ事かく有様だから到底負担にたえられんということで、窮状の歎願となった。

 品川県の割りあてに、各管内村々は当惑したが、何とかそれを調達して、苦しいなかでものりきろうとした村が少なくなかった。明治政府という新しい「おそろしい」支配者の命令、やむを得ぬと考えたようである。

 しかし、どうにも幕末以来の混乱疲弊で、出したくても出せない十二ヵ新田村々にとっては死活の問題であった。一度は県側も妥協して訴えをききそうであったが、その期待は裏切られた。

 県側は強行しても納めさせようと村役人をおどす。村役人は村の小前たちと話しあっても、どうにもならず、武蔵野新田十二ヵ村結束して、二年十二月二十八日、浜町の品川県庁仮事務所へ集団で直訴することになった。

 しかし一同が田無村まで押出したところ、途中で村役人の説得にあって、思いとどまらせられた。だが村役人たちはいずれも「宿預け」となり、翌年にもちこされた。三年正月八日県からの命令で、逆に出穀すべしといわれ、村役人がこれを拒絶すると、再び「宿預け」の形で、全員とめられるという事態になった。

 そこで、村々小前の者たちは、もはや県庁へ門訴する以外に方法がない。大挙して県庁へ押しかけようということになった。県庁側はこれを聞いて、あわてて村役人を村に帰すことにしたが、もうこのときは村民は県庁へ向かって出発したあとだった。一月十日のことである。ここにいう門訴とは、県庁の門の中に入らず、門の外で訴えれば罰せられないことを意味していた。

 県庁すなわち日本橋浜町の県事務所へ村人たちは十日の夕方から押し出したが、これを聞いた村役人たちは、内藤新宿名主の高松喜兵衛に依頼、喜兵衛は各方面に通知して、これが阻止に当たった。中野村ではこれを阻止できなかったが、淀橋辺では大八車を百台もだして道をふせいだため、ここを通過できず、やむなく、大久保・高田馬場・雑司ケ谷・小石川御門・昌平橋と進んで、浜町の品川県の仮事務所に到着した。付近は大変な騒ぎであった。蓑笠姿で農民たちは一同門外にならび、凶作を理由に社倉積立免除を歎願した。県庁側は門内に入れといったが、入らなかったのは、門内に入ると強訴になり罰せられるから、門外で訴えていた。命令をきかぬとみた県庁側は門を開き、騎馬二頭を先頭に農民めがけてきりこみ、また銃砲でおどすといった手段に出た。農民たちはあわてふためいて隅田川に逃げこんだりして四散したが、知事次席の岡野清三郎が何者かに鎌で横腹をえぐられて倒れたりした。このため県庁側の首謀者追究は苛烈を極めたという。この事件で多くの農民が逮捕された。なかでも関前新田名主忠左衛門と上保谷新田名主伊左衛門は拷問が再三行なわれ、多くの人々の取調べは苛酷をきわめた。

 県知事古賀一平(定雄)は、自ら出張して取調べを行なうほどで、責任者の処罰は二月二十七日に言い渡されたが、その前にすでに牢死するものが出るほどの厳しい取調べだった。

 生きていた名主のうち六人の名主が名主役取上げの命令をうけ、組頭や年寄、百姓代などが処罰された。これは一般農民を処罰して再度騒動を起こされてはたまらぬという県側の考えであったようだ。

 「門訴一件」はこうして武蔵野新田の村役人に多くの犠牲者を出して終了したが、結果としては割当てよりはるかに少ない、農民側希望の出穀高に近い線で解決した。この貯穀代が新しい教育制度の発足に当って、一部小学校の建設費に使われたことは、後のことだが、注目されてよい。

 品川県が、どのような政策を行なったか詳細は判明しない。余りに期間が短かかったため、その特色を示すに至らぬうちに終了したという感じである。