ただ品川県の事業で、特にとりたてて何かやったといえば、ビール製造の事業である。当時の品川をとりまく村々も維新の変転で疲弊し、明治二年の大凶荒といった事態に直面していたため、窮民のための授産事業といったものを何かやる必要にせまられていた。
そこで古賀一平知事が、窮民救済を看板にしてやり出したのがビール製造の事業であった。県営として、大井村字浜川の土佐の山内豊信の下屋敷跡(今の東大井三丁目)に麦酒製造所を建て、試験的に製造してみようということになった。
古賀知事は鍋島藩士であり、佐賀の鍋島といえば藩独自で海外文化を吸収していたので、その影響か、あるいは古賀自身の考えか、また一方では村内の旧家平林九兵衛は、大井から品川にかけて当時第一の事業家であったから、平林自身が横浜商いの人から外人のビール好きを聞いて、製造販売を思いつき、知事に建策したか、いろいろ推測説があるが、確証はない。
工場の完成した時期は不明だが、建坪六二坪半といわれているこのビール工場が、どれだけの県民を使い、どんな組織で、どこまでビール製造にこぎつけたかは明らかでない。そうした話が伝わっているだけで、できて販売されたのか、どうかも、よく判明しない。
しかも、四年十月、廃藩置県直前、(恐らく古賀知事はこの事態を知っていたろうが)ビール製造の事業を民間に払下げることにした。旧岸和田藩主岡部長職(ながもと)が、家令の名儀で、四、〇〇〇円で払下げをうけ、ビール製造にのり出すことになった。
この事業の本旨である窮民救済としての効果がどれほどあがったかは明らかでないが、従業員はそのまま製造に従事し、ビール製造が民間事業として再出発した。しかし売りあげは芳ばしくなく、六年八月の府の書類によっても、販売のいと口が開かれただけで、盛んに売れると思ったあてがはずれ、利益のろくにないことが記されている。
しかし、品川県自身が、対横浜、あるいは東京・横浜、外人といったことを頭に描いて、ビール製造の事業をやったということは特筆さるべきことであろう。