版籍奉還と廃藩置県

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明治二年(一八六九)六月の旧諸大名に対する版籍奉還聴許の結果、旧藩主はいちおう知藩事という形で、そのまま存置され、新政府の支配体制がととのった。しかし、この形では、政府の中央集権は、官僚制度機構に努力が払われたとはいえ、実体はあまり強化されたとはいえなかった。

 参勤交代といった制度によって中央集権を維持していた幕府の制度から、府藩県といった制度にきりかえて、維新政府は出発したのではあったが、藩というものの存在が、逆に政府に対する反抗をよび、不平不満の士族のほか、藩内農民の反抗一揆の続出など、すでにいくつかの小藩は財政的に破産状態となり、廃藩を出願する状況であった。

 こうしたことは新政府をひどく憂慮させた。しかし、政府首脳のうちにも、西郷―木戸、西郷―大久保など意見の対立があったが、何とかして藩を廃止しようという点では協力体制をとり、明治四年七月十四日、電撃的に廃藩置県が断行されたのであった。しかし、藩札はすべて政府が引受け、藩内の札所有者にも、藩主にも、何の迷惑もかからなかったことが、廃藩置県成功の第一の理由であった。

 ここに新政府の首脳は新しい人事を行ない、府藩県治の不合理な形から、強力な中央集権の支配体制にきりかわることになった。

 新しい官僚組織のもとに、政府に直結する府県のみの支配機構となり、藩が完全に解消し、明治政府の基礎はここに固まったといえよう。