廃藩置県の結果、明治四年十月、東京府は形式的には府藩県時代の東京府を廃して、新たに府県制としての東京府をおいたが、実体は別に変わらなかった。しかし、このとき藩を県にかえただけで、三府の外三〇二県になってしまったため、急速にこれを統合することにななり、十一月ごろから翌年五月にかけて、統合が行なわれた。ここに品川県の解体解消、他府県への分離統合が行なわれることになったのである。それはやはり東京府が、明治天皇の東幸、在城、皇居と定められるといった一連のことから、遷都の詔はなくても、東京が事実上首都となったため、急速に回復し、人口も増加の傾向にあり、東京府を強化する必要があった点も否定できない。
品川県のうち、四年十二月五日東京府に編入になったのは、荏原郡のうち八五ヵ村、豊島郡のうち二六ヵ村、多摩郡のうち五五ヵ村であった。
他の村々、所沢や白子といった村は入間県・埼玉県、あるいは神奈川県といった工合に、それぞれ一時わけられたが、統合がつづいて行なわれ、埼玉県・神奈川県にそれぞれ管轄替えをさせられた。
東京府に編入された村々も、たちまち一部は神奈川県へ編成替えされ、五年正月、中野村など三九ヵ村は神奈川県編入となり、五年九月には、またそのうち三二ヵ村が東京府に入るといった変動があった。
とにかく、四年十二月に編入になった村名をあげると次の通りである。
覚東村、小足立村、粕谷村、廻り沢村、船橋村、上祖師ケ谷村、下祖師ケ谷村、喜多見村、駒井村、中野村、江古田村、上鷺之宮村、高円寺村、馬橋村、雑色村、永福寺村、上荻窪村、下荻窪村、久我山村、上高井戸村、下高井戸村、中高井戸村、烏山村、田端村、成宗村、本郷村、新井村、和泉村、和泉村新田、大宮前新田、松庵村、吉祥寺村、西窪村、下連雀村、給田村、上高田村、片山村、和田村、大蔵村、横根村、上野村、入間村、牟礼村、上井草村、下井草村、天沼村、阿佐ケ谷村、堀之内村、下鷺之宮村、上沼袋村、下沼袋村である。
豊島郡のうちでは、上渋谷村、代々木村、角筈村、幡ケ谷村、中荒井村、砂利取場、跡新田、田中村、谷原村、上石神井村、下石神井村、諏訪村、上練馬村、下練馬村、土支田村、関村、上落谷村、東大久保村、西大久保村、下落谷村、葛ケ谷村、隠田村、竹下新田、上豊沢村、中豊沢村、中村、柏木村、牛込破損町、内藤新宿である。
また荏原郡では南品川宿、利田新地、北品川宿、二日五日市村、居木橋村、戸越村、上蛇窪村、下蛇窪村、大井村、桐ケ谷村、不入斗村、西大森村、東大森村、堤方村、女塚村、糀谷村、萩中村、八幡塚村、古市場村、馬込村、池上村、道々橋村、雪ケ谷村、中延村、上目黒村、谷山村、小山村、市之倉村、奥沢村、石川村、池沢村、深沢村、下野毛村、野沢村、上沼部村、下沼部村、嶺村、下丸子村、矢口村、高畑村、道塚村、原村、町屋村、雑色村、古川村、久ケ原村、鵜之木村、上大崎村、下大崎村、松原村、赤堤村、経堂在家村、代田村、池尻村、三宿村、下北沢村、太子堂村、桐ケ谷村、羽田村、源太郎新田、羽田猟師町、鈴木新田、増田新田、若林村、上馬引沢村、中馬引沢村、下馬引沢村、奥沢本村、等々力村、碑文谷村、下袋村、新井宿村、小林村、安方村、北蒲田村、蒲田新宿村、浜竹村、御園村、今泉村、下池上村、下目黒村、中目黒村、蓮沼村、徳持村、衾村、上北沢村である。
しかし、再編成は、前記中野村などのほかいろいろ行なわれた。政府としても、村々の事情その他で変更せざるを得なかったようである。たとえば武蔵野の四ヵ村は吉祥寺と西窪の二村は東京府に、関前と境の二村は入間県に属したが、すぐ翌五年五月には四村を一つに統合して、神奈川県へ編入といった工合で、品川県のうちでも、その再編成が終了するまでには、いろいろの経過をたどったわけである。
とにかく、わたくしたちの品川宿とその周辺村々は、東京府に編入されることが、抵抗なくすっきり行なわれたのであった。
ただし、旧品川県のうちでも、中野村ほか三九ヵ村は、一たん東京府に編入されながら、五年正月に神奈川県へ管轄替えとなり、東京府庁へは二、三里なのに、神奈川県庁へは一〇里内外あって不便きわまりないというので反対陳情をつづけ、このうち三二ヵ村だけが、明治五年九月十日に東京府に編成替えとなっている。現在の中野区・杉並区の地域に当たる。