助郷の廃止

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品川宿近接の村々農民たちの、維新の際における東征軍のため「助郷相つとむる様」との命令による勤めぶりは大変な苦労だったことは、今も老人たちによって語り伝えられているほどである。しかしやがて明治元年三月二十九日には、日本全国公平に助郷を命ずるの令がでて、五月には「東海道七万石、中山道五千石、脇街道一万石程度、高四分勤ノ見積ヲ以、先一箇年ノ間一円助郷ニ組込」むこととし、御領・私領・社寺領をとわず施行し、無賃人馬・木銭・米代の休泊を禁止した。助郷村々には宿駅とともに費用を省き、人馬は人別に応じて出し、足し高は石高に応じて出すことに改正した。まず改革の第一歩だったといえる。

 しかし勝てば官軍で、新政府役人の威張り方は一通りでなく、銭を払わずに泊る者が少なくなく、品川宿の難儀はひと方でなく、助郷村々の私の用事に狩り出されることも、たびたびで、泣きの涙の状態であった。元年九月には天皇東幸のこともあって、これの対策がいろいろ出されたが、逆に品川宿では人馬の徴発に苦しむ状況だった。三年二月には駅法を改正、一駅人足一〇〇人とし、不足の分は宿駅近傍の村々で助郷を命じることとし、宿駅人足賃は十二倍増、助郷人足は十倍分をわたし、二倍分は人足の助成金にあてることとし、官吏の通行に継人足数を制限した。宿駅に対しては品川宿をはじめ地子免除とし、米三五石を支給、問屋飛脚米を廃止した。貫目改所も甲州道中は新宿だけにしたが、東海道は品川・静岡・熱田・大津におき、中山道は板橋・追分・洗馬に、陸羽道中は千住と宇都宮においた。さらに閏十月には宿駅の本陣・脇本陣の名目を一切廃止し、手当の支給を中止した。四年二月には東海道筋は助郷高一石に付一ヵ年人足一人と定められた。しかし度重なる助郷徴用で、品川宿近郷農村はかなり疲弊していった。その上、四年十月には廃藩置県が断行され、品川県の東京府、神奈川県への分裂編入があり、品川宿は大騒ぎだったが、十一月になって、新しい組織による陸運会社の手で、相対賃銭での旅行と貨物輸送計画が出願されたので、駅逓寮では「伝馬」の制度を廃止することに踏みきった。

 五年正月に東海道筋伝馬所廃止を布告、公事旅行でも相対で陸運会社へ人馬継立方について相談するようにと触れ、さらに伝馬所と助郷廃止の布告を行なった。宿場と近郷村々にとって大きな変化であったといってよい。陸運会社の相対運輸は発足しても、旧来の慣習を廃止することは容易でなく、これに手をやいた政府は、太政官布告をもって、五年七月二十日、伝馬所および助郷其他一切の課役と、官より支給する米金を廃止した。この結果、助郷の課役は完全に宿駅近郷村々から除かれることになった。どんなにか品川周辺の村人たちも喜んだことであろう。江戸時代以来、品川近郷農民の苦しみであった助郷制度は、ここに終止符がうたれたのである。