上巻にのべたように徳川時代の飛脚制度は幕府の公文書取扱についてまず行なわれ、各藩もこれに倣って行なわれたが、「官府の用をみたすに過ぎず」の言葉通りで、そこで町飛脚が街道と宿駅を中心として起こり、幕府公用ばかりか一般通言もこれにより便を得るようになった。どんなに私信なども便利になったか、はかり知れざるものがあった。しかも、江戸、大坂、京の間のように為替の逓送がひんぱんに行なわれるようになると、宿次とか、宿における定宿といったことが特に密接な関係をもつようになった。しかしあくまで町飛脚は、たとえ組合があったとはいえ私個人営業であり、路次の安全は必ずしも十分とはいえなかった。飛脚問屋より品川をはじめ、各宿駅における雲助の乱暴の取締方を再三歎願しているのによっても明らかである。そのため逓送の確実安全と迅速、賃銭の低廉、政治上の機密保持については、かなりの欠点があったことは否定できなかった。
維新後、慶応四年閏四月には駅路に関する事務は駅逓司の所管となり、九月には駅逓規則が定められた。明治三年三月になって郵伝規則が制定されたが、急には制度を改めず、在来の飛脚制度を踏襲したままといってよかった。
しかし、欧米諸国を範とした新しい郵便制度にかえる必要が力説されて、新政府においても、三年六月民部省がこれを禀議し、三年十二月には東海道に郵便制度の施行が予告され、翌四年正月には、三月よりまず東京と京都・大阪間に郵便法を実施する旨が布告された。とりあえず、郵便役所、つまり信書の差出し場所と受取場所は、東京は日本橋四日市の駅逓司(後の駅逓寮)郵便役所をはじめ計一二ヵ所、京都七ヵ所、大阪八ヵ所とし、四年三月から画期的な郵便制度が実施された。信書には切手をはって、料金前払いで先方へ届けられるという仕組みで、市民にとって、全く新しい制度だったが、継立場としての宿駅には、駅逓司(局)の飛脚人足を備えおいて、行嚢(のう)が到着すると、直ちに次の宿に継送るという方法であったから、各宿ともただちに大打撃をうけたわけでない。ただし大阪まで一貫五百文、京都まで一貫四百文といった具合に、東海道各宿によって料金は違っていた。別に一里六百文ずつの料金高で今の速達類似のものがあった。一日一回東京・大阪交互に行なわれ、五年三月には東京府下は一日三回、五月には東京・横浜五回と郵便制度は着々整備されていった。四年十二月の東京・長崎間開始には九五時(とき)、即ち一九〇時間を要したが、一般の人々はその迅速低廉なのに驚嘆したという。しかしまだ、距離によって料金に差のあったのを、前島密(ひそか)の主張通り、全国同一料金にしたのは、六年四月のことであった。こうして品川宿にも次々に変化がおしよせた。