戸籍法の制定

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明治四年四月五日、新政府は新たに戸籍法を制定公布した。東京府においては、市街地に明治二年、所によっては三年に一応の戸籍簿をつくらせたが、これはもちろん明治天皇東幸後首都となった東京の市民を把握しておく必要が、種々の情勢より必要であったからである。行政区画の再編成によるこうした戸籍簿の整備は行なわれても、その書式は旧来の人別帳的色彩の強いものであった。しかも武家地・社寺地・町方の区別のはっきりしたものであった。新戸籍法では市街・農村をとわず、この武家地・社寺地といった区別をすべて廃止し、行政区画においても改変を加え、大区小区制を採用、各区に戸長・副戸長におき、任命制の官吏として、全く旧来の名主を残しておく方針を一抛した。そして戸長・副戸長に区内の戸数・人員・生死・出入の一切をつかさどらせることとし、戸籍簿は「区民一般」華族・士族・卒・祠官・僧侶・平民を、居住せる土地において記載登録することとした。大区小区の設定と区長・副戸長の任命は、市街地・村地とか武家地・町地・社寺地の区別なく施行されることになった。

 これに間もなく廃藩置県という大きな変化があり、品川県のように東京府・神奈川県に分れた所では、その結果としての戸籍作成が、新しい制度のもとで、区長、戸長が行政区画のなかで中心となり、その任務中での最も重要な仕事の一つとなった。

 東京府の朱引内、市街地においては五十番組、それに、郷村地に五番組があったが、東京府においては、明治四年三月朱引内を縮小し、再編成した結果、広くなった郷村地に新しく大区小区を設け、五大区二五小区とした。これがとにかく大区小区のできたはじめで、朱引内も六月には番組を改め、四四区となり、計六九区とし、戸籍法による五年二月一日以降の「戸籍検査編制」に備えたもので、四年十月の廃藩置県後間もなく十一月には、県治条令が出て、武家地・町地・社寺地を共通して触頭を廃し、戸籍を一手に扱うため、府下を六大区に分け、そのうちに小区をおき、第一大区は一七、他は全部一六小区とし、九七の小区を設けた。

 これは戸籍法に基づくものではあったが、まだ品川・浦和・小菅三県の処置が明確でないうちに、府側にこうした編成がいち早く行なわれたことは記憶さるべきことである。

 この六大区はまだ品川などの関係のない旧朱引内だけではあったが、これによって、六大区内の小区は戸長によって戸籍に対する権限が握られ、後述する「神社守札」の、神社による人別帳支配を打破する基になった点で、特記さるべきことといってよい。

 こうして四年十一月には県治条令が出て、従来の郡村の区域がことごとく廃されて、旧慣に基づく住民感情を無視した、いわゆる大区小区制度による全国的統一、画一した地方制度が施行されることになり、地方全般に残っていた庄屋・名主・年寄といったものはすべて廃止され、区長・戸長をおいて新政府の基礎をかためることになった。

 そして、小区を単位とした戸長が、政府支配のもとに戸籍をおさえることになったのである。

 この結果、全国的に完成されたのが明治五年の壬申戸籍であって、この戸籍簿に基づいて東京府の人口が調べあげられ、それが明治七年の「東京府志料」に記載されたのである(資三六五号)。

 しかし、区内に限っていえば、明治三年に品川県の命により戸籍が作成されていたことは確実であるが、それは、「京都府戸籍仕法」にならったらしく、「産業・田畑・山林・船・牛馬」の数を上欄に記入しているうえ、戸籍は戸主・妻子・尊属の順になっている。

 この上欄が壬申戸籍では全く取除かれている点で特色があり、ここで純然たる戸籍簿になったといえよう。今まで町方人別とは全く別で、いばりくさっていた武士も、ここにはじめて、町人と一つの戸籍簿に、明治政府のもとで、住居地を主体に記載されて、士族という名称にとどまったことは、壬申戸籍の新しい意義がそこにあるといえる。