地番

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戸籍法第七則に「区内の順序を明にするには番号を用ゆべし」とあって、官民の差別なく一般に番号を定め、住所を記するにすべて「何番屋敷」と記して「編製の順序も其号数を以て定むる」こととしている。これが地番、今の番地のはじまりといわれている。しかし、市街地においては明治二年にすでに何町何番と番号のついた文書があるが、これは家についた番号で、あくまで家番号である。二年の戸籍法作成のとき、こうした努力が行なわれたらしいが、市街地では四年の文書に、何番地と称しているものがある。

 区内の村々では、やはり屋敷番号が家別に順につけられていったらしい。その証拠には当時家のなかった所は飛んでいて、あとになって、番号数のかなり多い地番がその中間の土地についている例が少なくない。区内にも上下大崎や桐ケ谷に、そうした明治四年の屋敷番号帳が残っている。品川宿などでは戸籍法によった家番が最初のようであるが、農村の村々では、地租改正のほぼでき上がったころ、明治十一年に出た地番規則によって、新しくつけなおされたものが大部分なのではなかろうか。これは地番で、たとえ家がなくても順につけられたようである。

 家番が地番に変わっていったのは大体このころだろうが、その一番地をどこにおいたのかよくわからない。東から西へ、北から南へといったつけ方が多いようだが、村境から順につけていった所が少なくないようである。