氏子守札

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壬申戸籍に関連して氏子守札のことを一言しておく。維新政府が王政復古の大号令を発した基盤には、国家神道の復活の問題をかかえていたことは否定できない。政府理念としての祭政一致を前面におし出し、神祇官をおき、神仏分離令を出し、江戸時代寺社といった通念を、社寺と順序を転倒させ、神社を重んじ、社内の仏像を追放することなどを指令、特に別当寺と神社を完全に分離し、逆に寺院内にあった神社を「胡神」として取払いを命ずるなど、ごく一時期であったにせよ、初年の混乱ははげしかった。しかし東京では廃仏毀釈(きしゃく)は少なかったらしいが、神社が優位にたつと同時に、江戸時代の寺院と人別帳の関係を神社と氏子にかえ、神社がその土産神として氏子全部を把握していこうとした。支配体制を神社を通してかためようというので、明治四年七月氏子守札の制が発足した。寺院にかわって神社が守子に守札を出し、人別帳にかわる戸籍人員の保持の上での支配の徹底化を計ろうとした。江戸時代の寺請制度はここに神社守札にかわることになったが、こうした祭政一致的強化政策が、あまりに急であったことと、施政者側にもそれを時代錯誤と賛成せぬ者もあり、国民の不満、仏教側の反撃などにより、四年八月神祇官は神祇省となり、五年三月には神祇省が廃されて教部省となるなど、大きく修正され、その結果、氏子守札の制度も後退、戸籍法の施行により、一時見あわせるよう指令が出された。その上、明治五年の壬申戸籍が次第に完了するとともに、神社側の戸籍への関与は無力化し、明治六年には廃止されてしまった。

 戸籍法が官僚組織の末端たる戸長・副戸長に権限が与えられ、戸籍の出入りの責任が官吏の手にうつり、戸長は管轄内の戸口惣計を戸籍表として作成し、毎年七月太政官に提出することになったことは、戸籍の掌握が完全に政府の手にうつったことを示し、神社は関係がなくなってしまったが、氏子と神社の結びつきは、たとえ守札が廃止されても、強く村民のなかに残って、明治期の土産神尊崇となったことは否定できない。


第3図 神社守札

 この「氏子守札」実施の予備として調査したのかどうかは明らかでないが、東京府文書中に、明治五年の「氏子調」がある。神社を中心にして、氏子数を書出したもので、当時の品川区内村々が、どのような氏子と神社の結びつきになっていたかがわかって面白いので、次にかかげておく。

 

 第二大区 十七ノ小区

  荏原郡北品川宿鎮座 郷社 北品川神社

   氏子 千二百六十戸 五千四百七十人

   摂社 馬場町鎮座 清瀬天満天神社 氏子無

   摂社 陣屋横町鎮座 五月女稲荷神社 氏子無

   摂社 南品川三ツ木鎮座 貴船神社 氏子無

   摂社 品川歩行新宿鎮座 谷山稲荷神社 氏子無

   摂社 品川台町鎮座 袖ケ崎稲荷神社 氏子無

 第二大区 十八ノ小区

  荏原郡南品川宿鎮座 郷社 南品川神社

   氏子 千三百六十一戸 五千六百七十七人

 品川口 元第二区

 下蛇ケ窪村鎮座 神明社

  氏子 五十三戸 二百九十四人

  明細帳ニ、別ニ稲荷社

 上蛇ケ窪村鎮座 神明社

  氏子 三十三戸 百九十四人

  合戸数三百七戸 人員千六百四十一人

 同郡大井村鎮座 村社 鹿嶋神社 蒲田社ニ属ス。

  氏子 百二十一戸 五百五十三人

 同村ノ内字御林町鎮座 八幡神社

  氏子 三百六十六戸 人員千六百五十七人

  同村別ニ稲荷二社アリ

 同村ノ内字浜川町鎮座 神明社

 同郡下大崎村鎮座 村社 雉子神社

  氏子 百九十四戸 九百八人

明細帳、別ニ、永峯町八幡神社、六軒茶屋稲荷社 名所図会、荏原神社コレナランカトアリ、明細帳ニモ此説アリ。

 桐ケ谷村鎮座 氷川神社

  氏子六十四戸 三百三十六人

 居木橋村鎮座 居木神社

  氏子 四十三戸 二百八十二人

  明細帳ニ、摂社本村神社、稲荷神社

 同郡中延村鎮座 村社 八幡神社

  氏子百四十五戸 八百八人

 戸越村鎮座 八幡神社

  氏子 百六十六戸 八百四十五人

  明細帳ニ、品川神社ノ摂社トアリ。

 小山村鎮座 八幡神社

  氏子 六十五戸 四百四十一人

  明細帳、別ニ、三谷八幡宮アリ。