明治天皇の再度の東幸により首都となった東京は、新政府の手で、第二の幕府かの如き感あった東京の鎮将府が廃せられ、すっきりした形での一本化が行なわれて以来、軍事力の統率が大きな問題で、明治二年七月の兵部省の誕生、大村兵部大輔による全国皆兵計画に対する士族の反感からの二年九月の大村暗殺といった事件がつづいた。しかし大村に代わった山県は、三年欧洲兵制を調査の上、十一月には徴兵規則を制定、全国に兵を募ることになった。しかも四年八月廃藩置県で、それまでの藩兵を解散、四年に東山・西海に鎮台を設けたのを改めて、全国を東京・大阪と鎮西・東北の四ブロックにわけ、旧藩の壮丁を鎮台兵に募集したが、五年二月兵部省を廃止し、陸海両省の設置をみるとともに、徴兵の実現に着々努めた。
五年十一月二十八日徴兵令は発布された。「海外各国の式を斟酌し、全国募集の法を設け、国家保護の基を立てんと欲す」ということで出発したが、太政官の徴兵告諭が同時に出たが、これが「西人之を称して血税という。その生血を以て国に報ずるをいふ也」という文面のため多くの誤解をうみ、生血をとられるなどというデマから地方によっては徴兵忌避や暴動にまで発展したところもあった。
しかし、一時は全国的に恐怖をまきおこしたものの、次第にこの騒ぎが鎮まり、国民に理解されるようになると、六年一月より徴兵が実施された。当初はいろいろぬけ道があり、「一家の戸主・官吏嗣子・承祖の孫・独り子・独孫および父兄に代わりて家を治むるもの」は免除された。満二十歳以上を壮丁とし、常備・後備・国民兵役の三種に分れていたが、常備・後備について、代人料金二七〇円を納入すれば免除という規定があり、これは自由民権運動の人人や反政府的人々の論議の的となった。
この不可思議な規則が改まって、戸主年齢六十歳以上の者の嗣子・承祖の孫・戸主・廃疾の嗣子だけが免除ということになったのは明治十六年のことであった。