大区小区時代の一つの特色は、小区における戸長・副戸長という、行政の末端のことを一切かたづける事務官吏的なものがあったことで、むしろ、江戸時代の名主に比定する人さえあるくらいである。
旧朱引内を六大区に分けるについても、この戸長・副戸長の権限にふれ、四年の十一月二十八日に、
正院御中
府下ノ儀、是迄武士地社寺地町地ト区別相立、諸事取扱来候処、先般伺ノ上、触頭被レ廃、戸籍掛一手ニ取扱候ニ付、差向キ取締ノ都合モ有レ之、旁府下六大区ニ分チ、其内小区ヲ区画シ、大区ニ総長一名、小区ニ戸長副長数名ヲ置キ、自今区内ノ事務并布告渾テ其戸長ニテ為二取扱一候間、区割絵図相添、此段御届申上候也。
辛未○明治四年。十一月
追テ御官員ヘモ本文ノ趣御達置有二御座一度候也。
東京府
と通知しているくらいで、戸籍法との関係もあり、小区内の村々はすべて、この官僚的な戸長によって、戸籍を確実におさえて、徴兵その他のことまで、村人に対するにらみをきかせるといった「支配」が行なわれたといってよい。
しかも、政府は、この戸長の権限を政府の行政の尖兵といった形に仕立て、郡区町村編制法施行後、特に郡部においては、荏原郡が成立し、郡長が品川にあっても、連合村戸長制をしいて、何村かの村が連合して、いわゆる連合村制をとり、連合戸長役場で、一人の戸長の支配をうけるという形で、戸長制度が残っていったことは、記憶さるべきことであろう(次節参照)。