明治五年に施行された大区・小区制は、廃藩置県後の国内体制を中央集権的に組織しようとする明治政府の意図から生まれたものであって、地域住民の便宜を図ったものではなかった。したがって旧来の町村の制度・習慣を無視し、実情に適さないことが多く、しかも町村の負担は従来とまったく変わらず、むしろ加重されるというのが現状であった。
大区・小区制においては行政の最小単位は小区で、小区の戸長が上からの命令を下に伝え、下の事情を上に申達することになり、旧来の町村は小区のなかに埋もれた部落にすぎないものとなった。戸長は官選で、法令の伝達、願届の奥書などにあたるだけで、宿・村の意見・利害を代弁するものではなかった。
宿・村の日常事務を行ない、宿村民の意見・利害を代表するものは、戸長の指揮下におかれた総代がこれにあたった。
明治八年十二月、北品川宿の総代が改選されたが、そのとき北品川宿惣小前が連印して区長に届出た証書は、総代の性格をよく示している。
これによると、宿住民は集会を開いて信頼すべき人物二名を総代として選挙し、その任期を三年とした。そして総代の職務をつぎのように定めている。
一、宿総代は租税、力役之割合ヲ始、宿入用金銭集散不当無之様立会、神社・道橋・悪用水等之修補、鰥寡之救助・子弟之教育・風俗之善悪ニ至迄無油断可申談事(『品川町史』下巻一四一ページ)
つまり、従来村役人がおこなってきた仕事のすべてを事実上担当するものであった。貢租や賦役の割当、身寄りのない人の救済・教育など本来政府のなすべき仕事も、宿財政や神社・道路・橋・用悪水の改修など宿業務にいたるすべてを担任した総代こそ、真の村代表の性格をもつものであった。
にもかかわらず、大区・小区制においては、官治の方針をそのままおしつけてくる区長と、そのもとで村民の願届に奥書をするだけの戸長という、幾重にも複雑な地方機関をつくったために、日常事務は繁雑となり、しかも実情を無視した画一的な、上からの指揮・命令の一方的おしつけによって、かえって地方制度は混乱した。
他方、明治七年一月の板垣退助・後藤象二郎らによる民撰議院設立建白をきっかけに、自由民権思想は広く国民に浸透した。その影響もあって各地に民会と称する地方議会に類似した会合が開かれるにいたった。明治八年七月の第一回地方官会議では、この勢におされて、地方民会をその議題に採りあげ、官選の区戸長による府県会および区会を開くことを議定した。
こうして、地方制度の改正、地方行政遂行の上での民会の設置は、避けることのできない問題となってきた。