三新法の制定

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明治十年西南戦争が終わると、内務卿大久保利通は地方制度全般にわたる改革に着手し、翌十一年三月、「地方之体制等改革之義」なる上申書を太政大臣三条実美に提出した。

 上申書のなかで大久保は、いま国内に不平の気運が充満し、各地に争乱一揆がしきりに起こっているのは、政府の施策よろしきをえないことにもよるが、その重要な原因の一つは、地方自治を認めないで、すべての権限を中央政府が握っていることにある。しかもその制度たるや、「大区ニ区長ヲ置キ小区ニ戸長ヲ置クアル等不倫(ママ)煩冗甚シク要スルニ其制宜キヲ得サルノミナラス、数百年来慣習ノ郡制ヲ破リ新規ニ奇異ノ区画ヲ設ケタルヲ以テ、頗ル人心ニ適セス、又便宜ヲ欠キ人間絶テ利益ナキノミナラス只弊害アルノミ」であると。このように反省して、大久保は古来の郡制を復活してこれを行政区とし、町村は「住民社会独立ノ区画タル一種ノ性質ノミヲ有セシメ………村町ハ其村町内ノ共同ノ公事ヲ行フ者即チ行事人ヲ以テ其独立ノ公事ヲ掌ルヘキモノトナスヘキナリ」とした。つまり、郡を政府官僚機構の最末端とし、町村には一定の自治を認めるというのであった。

 大久保内務卿の意見は、この年、大久保が紀尾井坂の変で暗殺されて一時中断したが、その後多少修正されて、明治十一年四月の第二回地方官会議に郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則の三法案として付議され、さらに元老院会議の討議をへて、同年七月二十二日布告されるにいたった。これがいわゆる三新法である。

 三新法の要(かなめ)である郡区町村編成法の要点は、「第一、大小区ノ重複ヲ除キ以テ費用ヲ節ス、第二、郡町村ノ旧ニ復シ以良俗ニ便ス、第三、郡長ノ職任ヲ重クシ以施政ニ便ス」との主旨から、大区小区を廃止し、郡町村を復活したことにある。かくして、町村は自治団体として認められ、その代表である戸長は町村民の公選とされた。官僚の最末端である郡長の職権が強化され、町村戸長にたいする指揮権を与えられた。