郡区町村編成法の公布に基づいて、東京府は明治十一年十一月二日、布達用第四十九号で、
本年太政官第十七号公布に依り、従前の大小区を廃し、区郡名称区域別冊之通相定候条此旨布達候事
とした。その結果、新たに麹町・神田・日本橋・京橋・芝・麻布・赤坂・四谷・牛込・小石川・本郷・下谷・浅草・本所・深川の一五区と、荏原・南豊島・北豊島・南足立、南葛飾・東多摩の六郡が設けられ、それぞれ区長・郡長が置かれた。この改革で設けられた荏原郡は、今までの第七大区の村々九〇宿町村をすべてその管轄下におさめ、郡役所を品川に置いた。
郡長には桐ヶ谷村の名主で、前に第七大区の副区長を勤めた林交周が任命された。林は学問は十分でなかったが、頭脳の回転が早い人で、人柄は豪傑肌の人であったといわれる。郡長会議でも卒直に意見を述べ、伊藤博文からも目をかけられた。明治十一年郡長就任以来明治二十八年まで、一八年間の長きにわたって在職した。品川神社に立つ石碑の碑文は伊藤博文の書いたもので、そのなかに「官吏となりて五十年民の君を思う常に久しくいよいよ切なり」との一文が見られる。管内人民から相当信望があったといわれる。
ところで郡区町村編成法は「旧慣ニ依ルニ町村ハ実ニ一ノ形体ヲ成シ、大ナルモ之ヲ削ルベカラズ、小ナルモ之ヲ併スベカラズ」との原則にたっていたが、その第六条は「毎町村ニ戸長各一員ヲ置ク又数町村ニ一員ヲ置ク事ヲ得」として、数町村連合して戸長一名を置くことを認めていた。これにより区域狭く、戸数の少ない町村は数ヵ町村連合して戸長を置くところが多かった。(注)
(注) 明治十七年内務卿山県有朋のもとで地方制度の改正がなされた際、政府は訓令を出して「一町村凡ソ五百戸以上ノ者ハ連合セスシテ戸長一員ヲ置クヘシ、其五百戸以下ノ町村ハ便宜連合スルヲ得ルモ合テ五百戸以上五町村以上ニ及フヘカラス」とした。つまり五百戸、五町村以下を標準としたのである。十七年以前においてもこれがほぼ連合町村の標準であったと考えられる。
この六条に基づき、荏原郡内の現品川区域の宿町村も多くは数ヵ町村に一名の戸長を置くこととしたのである。
まず以前第二小区に属した品川では、南北にわかれて、南品川宿・南品川猟師町・南品川利田新地・二日五日市村の三宿一ヵ村を合して一戸長役場を置き、北品川宿・品川歩行新宿の二宿を合して一戸長役場を設置した。南の戸長は利田邦高で、戸長役場ははじめ南品川宿二三八番地(荏川町)に置いたが、のち南品川宿問屋場跡、さらに長徳寺庫裡へと三たび移転した。一方北の戸長は飯田三郎が選ばれ、戸長役場は、はじめ善福寺脇の長屋に置いたが、のちに北馬場に移転した。
これらの組合町村の規模はかなり大きく、いま明治十一年東京府の調査した『東京府村誌』(資三六六号)によって戸数・人口を示すと、つぎのとおりである。
宿村名 | 戸数 | 人口 | ||
---|---|---|---|---|
男 | 女 | 計 | ||
南品川宿 | 戸 | 人 | 人 | 人 |
一、五一二 | 三、〇〇二 | 二、六〇三 | 五、八九五 | |
(一九六) | (五四一) | (二九〇) | (八三一) | |
南品川猟師町 | 一六八 | 四〇三 | 三九四 | 七九七 |
(一〇) | (二四) | (六) | (三〇) | |
南品川利田新地 | 七〇 | 一五三 | 一五八 | 三三七 |
(一二) | (一四) | (一二) | (二六) | |
二日五日市村 | 五九 | 一一四 | 九六 | 二一〇 |
(一三) | (二七) | (一〇) | (三七) | |
計 | 一、八〇九 | 三、六七二 | 三、二五一 | 六、九二三 |
(二三一) | (六〇六) | (三一八) | (九二四) | |
北品川宿※ | 一、〇〇四 | 一、八九五 | 二、〇〇八 | 三、九〇三 |
(一三五) | (三〇一) | (二三七) | (五三八) | |
品川歩行新宿 | 三九五 | 八三一 | 九六一 | 一、六〇〇 |
(二二) | (一二六) | (六六) | (一九二) | |
計 | 一、三九九 | 二、七二六 | 二、九六九 | 五、五〇三 |
(一五七) | (四二七) | (三〇三) | (七三〇) |
( )内は寄留戸数、寄留者人数を示す(以下同じ)。
※品川台町を含む。
つぎに、第五小区に属した上大崎・下大崎・谷山・桐ヶ谷・居木橋の五ヵ村が合して連合戸長役場を設けた。戸長には谷山村の海老沢重治が選ばれた。海老沢は維新前より谷山村の名主をつとめ、大区・小区制時代には第五小区の副戸長として村治にあたった。戸長に選ばれた海老沢は谷山の自宅をもって連合戸長役場とした。この連合村は、後に明治二十二年の町村制施行にともなう大合併によって大崎村に発展するのである。
この大崎地区を先の資料によって戸数・人口をみると次のとおりである。
村名 | 戸数 | 人口 | ||
---|---|---|---|---|
男 | 女 | 計 | ||
上大崎村 | 一五五 | 三〇二 | 二七八 | 五九〇 |
(一〇) | (二二) | (一〇) | (三二) | |
下大崎村 | 九六 | 一九〇 | 一六八 | 三五八 |
(四) | (四) | (二) | (六) | |
谷山村 | 二五 | 九三 | 七三 | 一六六 |
(一) | (一) | (〇) | (一) | |
桐ケ谷村 | 七五 | 一七二 | 一五八 | 三三〇 |
(〇) | (〇) | (〇) | (〇) | |
居木橋村 | 五二 | 一五八 | 一三八 | 二九六 |
(〇) | (〇) | (〇) | (〇) | |
計 | 四〇三 | 九一五 | 八一五 | 一、七三〇 |
(一五) | (二七) | (一二) | (三九) |
第三小区の大井村は、旧幕時代から一貫して大井村を称え、明治十一年も独立して戸長を選出、平林九兵衛が選ばれた。平林は戸長就任とともに身を挺して公共のために尽力、自治民政に多くの業績をあげ、今日にいたるまでこの地域の人びとから賞讃の声をもって慕われている。のち明治十六年には東京府会議員に当選している。
当時の大井村の戸数・人口は次のとおりである。
村名 | 戸数 | 人口 | ||
---|---|---|---|---|
男 | 女 | 計 | ||
大井村 | 九六八 | 二、二四一 | 二、一一六 | 四、三五七 |
(二五) | (一〇三) | (四一) | (一四四) |
のちに平塚村から荏原町へと発展した地域は、第三小区に属した上蛇窪・下蛇窪両村に第五小区の戸越村とが合して組合戸長役場を置くこととし、戸長には戸越村の山越次郎兵衛が選出されたが、明治十四年には一時上蛇窪村の金子喜兵衛にかわり、のち再び山路にかわった。
他方、第五小区に属した中延・小山の両村も共同して組合戸長役場を設置し、戸長には海老沢兵左衛門が選出された。各村がこのような組合わせによって戸長役場を設置したのは、おそらく旧幕時代に上蛇窪・下蛇窪・戸越は品川領に属し、中延・小山は馬込領に属したという旧来からの村治行政と密接な関係によるものと考えられる。
両組合戸長役場内の戸数・人口はつぎのとおりである。
村名 | 戸数 | 人口 | ||
---|---|---|---|---|
男 | 女 | 計 | ||
戸越村 | 一七〇 | 四二六 | 四二二 | 八四八 |
(一) | (五) | (九) | (一四) | |
上蛇窪村 | 三一 | 一九三 | ||
下蛇窪村 | 五五 | 三〇五 | ||
計 | 二五六 | 一、三四六 | ||
(一) | (一四) | |||
中延村 | 一四七 | 三九〇 | 四二八 | 八一八 |
(〇) | (〇) | (〇) | (〇) | |
小山村 | 六九 | 二二七 | 二二一 | 四四八 |
(〇) | (〇) | (〇) | (〇) | |
計 | 二〇六 | 六一七 | 六四九 | 一、二六六 |
(〇) | (〇) | (〇) | (〇) |
(注) 上・下蛇窪村については『東京府村誌』中に記録を欠くため、『荏原区史』一七九ページの数字を採った。同書の戸越・中延・小山の戸数・人口数が村誌記載の数字に近似しているので、ほぼ明治十一年ころの数字と考えてよいであろう。
以上のように、明治十一年の郡区町村編成法による郡・町村の復活は当然のことながら旧幕時代の町村ではありえず、ここには大区・小区制の影響をうけて組合戸長役場の設置が行なわれ、のちの明治二十二年に行なわれる大町村合併の原型がはやくもつくりあげられたことは注目される。もちろん、数ヵ村組合わせの戸長役場の設置は、宿駅として発展してきた品川に見られるような、標準をはるかに超える戸数をその管轄におさめた戸長役場や、農村部の大井・大崎・中延などのように、ほぼ全国平均の戸数をもった戸長役場など一様ではない。
これらが組合戸長役場を設置した理由は、それぞれ特殊な事情もあろうが、一般的には役場経費の節約、民費の負担をできるかぎり少なくしようとしたことにあった。それだけでなく、これらの町村は、経済産業上、また一般社会生活の上で、次第に密接な関係をもつようになってきたことも大きな原因であった。
なおもう一つ注目されるのは、南品川宿・北品川宿をはじめ品川歩行新宿・大井村などが、農村部各村に較べて寄留戸数・人口が目だって多いことである。品川などの市街地域にはこの時期から、早くも他町村・他府県からの人口流入が徐々に進みつつあったことを物語っている。