府会の設置と荏原郡の代表

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明治十一年十二月、三新法の一つである府県会規則に基づいて、東京でも府会が開設された。府県会の職能は、地方税によってまかなう経費の予算と、その徴収方法を議定するものと定められ、府県知事の権限が強い、不十分なものであったが、地方制度の発達の上からは重要な意義をもっていた。

 府県会議員は郡区の大小に応じ毎郡区五人以下を記名投票で公選することになっていた。被選挙権者は満二五歳以上の男子で、その府県内に満三年以上居住し、地租一〇円以上(1)を納めるもの、選挙権者は満二〇歳以上の男子で、その郡区内に本籍を定め、地租五円以上(2)を納めることを要した。東京の場合、明治十一年十二月議員定数は戸数一万五〇〇〇未満は二人、一万五〇〇〇以上は三人とし、一五区六郡で定員総数四九人と定めた。その後十三年七月には人口三万未満二人、三万以上五万未満は三人、五万以上を五人と改正、定員は七五人に増加した。その後若干の改正はあるが、これで明治三十二年の府県制施行まで府会議員の選挙が行なわれた。

(注) 1 地租一〇円以上納めるものは、当時一・五~二町歩程度の土地所有者であった。

    2 地租五円はほぼ一町歩前後の土地所有者。

 

 品川地域を含む荏原郡は当初定員二名、のち十三年の改正で定員五名に増加した。今その結果を一覧表で示すと次のとおりである。

第4表 東京府会議員選挙結果一覧表
選挙年月日 選挙方法 有権者総数 有効投票総数
(×ハ無効)
当選者得票数
付 次点者以下ノ状況
当選者氏名
一、七二八 鳥山貞利
明治十一年十二月 連記記名投票 三、九六一 一八四 川田谷五郎
(初期選挙) 次点者 一四五票 益田孝
八六票 吉沢弥兵衛
三八五票 十四名
一、七九〇 小沢喜之蔵
明治十三年十二月 連記記名投票 一、五五三 秋山紋兵衛
(増員選挙) 一、〇〇八 服部幸右衛門
(定期半数改選ト同時ニ行フ) 次点者 八八六票 遠藤利兵衛
八四一票 原利三郎
八三二票 角兵左衛門
二、〇五五票 四名
一、七九八 鳥山貞利
一、五二二 高木正年
明治十五年二月 連記記名投票 二、三〇四 次点者 一、四七八票 豊田周作
(定期半数改選) 一、四七二票 田中筑〓
一、〇五五票 五名
二、〇三四 平林九兵衛
九一一 小沢喜之蔵
明治十七年四月 連記記名投票 二、二二三 八二七 豊田周作
(定期半数改選) 次点者 六五七票 田中筑〓
四四四票 服部幸右衛門
三二八票 田中鉄五郎
三〇三票 一名
一、五二〇 高木正年
一九四 鳥山貞利
明治十八年十二月 連記記名投票 二、〇九六 辞選高点者 八二二票 田中筑〓
(定期半数改選) 二三七票 田中鉄五郎
次点者 一三三票 遠藤利兵衛
二六六票 十名
一、九三一 平林九兵衛
一、五二五 豊田周作
一、四七七 田中筑〓
明治二十年十二月 連記記名投票 二、一五一 次点者 三〇七票 田中鉄五郎
(定期半数改選) 二三〇票 山田泰造
一三五票 田中四郎左衛門
二五四票 八名
明治二十三年二月 連記記名投票 二、〇六七 一、五一八 一、四四六 高木正年
(定期半数改選) 一、二四五 田中鉄五郎
九五〇 平林九兵衛
九〇四 豊田周作
明治二十五年二月 連記記名投票 二、〇二九 一、三九五 六三七 岸田吟治
(定期半数改選) 次点者 六〇二票 田中筑〓
四八〇票 田中新造
四〇六票 大場信愛
一三〇票 三十三名
八五六 谷岡慶治
明治二十七年二月 連記記名投票 二、〇三七 一、六七五 八三〇 田中筑〓
(定期半数改選) 次点者 七九六票 橋爪小四郎
七七三票 後藤慶太郎
八六票 十四名
八一〇 岸田吟治
七三九 大場信愛
明治二十九年二月 連記記名投票 二、〇三七 一、五〇四 七二五 吉田喜三郎
(定期半数改選) 次点者 六八九票 田中新造
六七四票 川田広太郎
四一一票 田中専五郎
四五八票 四十名
一、一九五 谷岡慶治
明治三十一年二月 連記記名投票 二、二〇〇 一、七〇九 一、〇二一 田中新造
(定期半数改選) 次点者 六〇五票 田中筑〓
四四三票 安藤文蔵
一四六票 十七名

(『東京府史』府会篇・第一巻)

 因みに当時荏原郡の人口は概数八万人であるから、選挙権を有するものは全体の二・五%にすぎなかった。

 当選者のうちには品川地区に本籍をもつものが多かった。北品川宿の鳥山貞利・服部幸右衛門、南品川宿の高木正年、大井村の平林九兵衛が府会議員として活躍、定員五名の時期には常時二名ないし三名が選出されている。もちろん品川・大井など当時として人口稠密な宿村を擁していたことにもよるが、相当な人物が多かったことも事実である。鳥山貞利はすでに大区・小区制時代に第七大区第二小区の副区長を勤め、第一回府会選挙に当選するや、郡部会議長に選出され、その後も鳩山和夫とその地位を争って四度議長の座についた。その後平林九兵衛と二度議長となっている。


第5図 鳥山貞利


第6図 平林九兵衛

 いまだ国会が開設されず、府県会が民意を反映する唯一の機関として世人の注目をあつめていた時期で、東京府会には福地源一郎・沼間守一・芳野世経・鳩山和夫・藤田茂吉・尾崎行雄・犬養毅・大岡育造・角田真平など、後に国会議員として政界をリードした人々や、福沢諭吉・田口卯吉などの著名人も多いなかで、鳥山・平林・高木らは郡部を代表して、その利害を堂堂主張したわけである。

 なお当時の府会議員選挙については、高木正年の興味ある回顧録があるので紹介しておこう。

 わたくしの選挙区たる荏原郡に於ては、……町村長が寄合って会議の結果、各町村に宣伝されたもので、正年(高木)の如きは、偶、人物の欠乏から拾ひ上げられたものに過ぎなかったのです、第一次選挙は明治十一年、勿論わたくしは年齢が未満でした。第二次選挙は明治十五年で、わたくしは漸く廿五歳になったために、各町村の集会に於て、公認候補に推選されたのですが、わたくしは、そのことを聞いて驚ろいたのは、わたくしは数へ年の廿五になったばかりで、まだ満廿五才に達していない、それで万一選挙された暁には、各町村に改めて再選挙の手数をかけねばなりません、そこで慌はてゝ、取消を申込んだのですが、その時、当選した荏原郡六郷村の川田谷五郎氏がその事情を聞いて気の毒に思われ、翌明治十六年に至り、正年の年齢満廿五歳に達するを俟って、自から府会議員を辞退し、正年をしてその補欠たらしめた、わたくしが議員生涯に入った由来は、こうした経緯であります。(横山健堂編『高木正年自叙伝』)

 高木が述べているように当時の府会議員候補者は郡内各戸長の相談によって決定された。しかし選挙は戸長推薦以外の立候補者もあったとみえ、なかなかはげしいものであった。大蔵省造幣寮権頭(現在でいえば造幣局次長)をつとめ、三井物産の社長であった益田孝でさえ次点で落選している。