町村会の開設

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府会の開設についで、明治十三年四月には太政官布告第十八号で区町村会法が公布され、全国に町村会が誕生することになった。

 しかし東京府においては、三新法公布と同時に出された太政官達「三新法ニ関スル施行順序」中四項(注)に基づいて、翌十二年二月には市内十五区に区会、郡部六郡に町村会を開設することを決した。

(注) 「三府及其他市街ノ区及各町村ハ其地方ノ便宜ニ従テ町村会議又ハ区会議ヲ開キ及ヒ地方税ノ外人民叶議ノ費用ハ地価割戸数割又ハ小間割日割歩合金等其他慣習ノ旧法ヲ用ユル事勝手タルヘシ(後略)」

 選挙は五月に行なわれ、ここに自治団体としての宿村にはじめて住民の意思を反映した議決機関が生まれたのである。このときの各町村議会の規則については不明であるが、大井村の場合は各部落に定数を割りふり、御林町一二人・浜川町七人・下芝一人・山之内三人・倉田一人・庚塚二人・出石一人・原一人・森二人、合計三〇人をもって村会を構成した。

 ところが森地区は戸数も多く、租税その他諸負担も多額なところから、議員数を三名に増員されたいとの希望が強く、戸長平林九兵衛から荏原郡長林交周にその旨上申が行なわれたが、結局許可されなかった。

 このなかで平林戸長は、「干今(いまに)会議の設けあるは、圧制弊害を絶し、公儀輿論を極め、其至当を得る、実に村民の僥倖なり」(『大井町史』)と述べて、町村会開設を従来の圧制弊害を除去して、公儀輿論を拡張するものとして歓迎している。ここにはまた村民の村会にたいする期待が示されているといえよう。

 翌十三年四月には区町村会法が公布され、改めて各連合町村はそれぞれ町村会規則を制定した。町村会の職務は「宿内公共ニ関スル事件及ヒ其経費ノ支出徴収方法」(「北品川宿・品川歩行新宿議会規則」第四条)を議定するものとされ、また東京府にたいして建議することもできるとされた。議員になる資格は、満二十五歳以上の男子で、宿村内に本籍がありかつ土地を有するもの、つまり地租を納めるものとなっている。選挙権は、満二十歳以上の男子で、宿村内に本籍があり、土地を有するもの、および満三年以上同地に寄留するものに与えられた。


第7図 明治13年,町村会規則文書(東京都公文書館蔵)

 選挙は十日前に公示され、投票は選挙人の住所氏名と被選人の住所氏名を記する、記名投票方式がとられた。議員の任期は四年で、二年ごとに半数を改選する。

 定員は各宿村とも人口に応じてこれを決め、それを各部落に割りふっている。北品川・品川歩行新宿の場合定員三五名で、品川歩行新宿一丁目三人、同二丁目三人、同三丁目四人、北品川宿一丁目三人、同二丁目三人、同三丁目四人、同馬場町一・二丁目四人、同馬場町三丁目並松原通り七名、同八ッ山兼御殿山耕地一本木耕地三名、同小関耕地兼三ッ木耕地二名であった。南品川宿・同猟師町・同利田新地・二日五日市村議会も定員三五名であるが、各地区の割振りは今記録を欠く。

 大井村は定員三〇名で、前年の定員と同じであるが、今回はその部落割振りをかえて、森を三名とし、山之内の三名を二名に減じた。この改正によって、さきの字森の希望は実現されたのである。下大崎・上大崎・谷山・桐ヶ谷・居木橋村会は定員二〇名で、上大崎村字永峰四名、同本村三名、下大崎村字坂下二名、同谷在家二名、谷山村二名、桐ヶ谷村字谷戸一名、同幡ヶ谷三名、居木橋村三名とした。戸越・上蛇窪・下蛇窪村会は定員一四名で、戸越村字後地三名、同中通三名、同本村三名、下蛇窪村三名、上蛇窪村二名である。中延・小山村会は定員一五名で、小山村字三谷二名、同向三名、中延村字上ミ三名、同中通り四名、同東三名と割振った。