明治十七年、政府は区町村会・府県会を舞台に全国的に展開した自由民権運動を抑え、地方公共団体を政府の強い統制下におくことを目的に、区町村会法の改正を行なった。その要点は第一に、従来の町村会の議定範囲である「其区町村ノ公共ニ関スル事件及ヒ其経費ノ支出徴収方法」を「区町村費ヲ以テ支弁スヘキ事件及其経費ノ支出徴収方法」と改めた。つまり町村内の公的事件一般について議定するのでなく、町村費をもって支弁する事件と明確に限定した。第二に従来町村会の規則(このなかで定数・議長選挙・議案の発案権などを規定していた)は町村において便宜定めていたのを、一律府県知事が制定してこれを管内に公布するものとした。その結果、被選挙権は満二十五歳以上にひきあげられ、定数も減少し、発案権はもっぱら戸長にのみ与えられ、さらに町村会議長は戸長が就任することになった。このように戸長の町村会にたいする権限を強化すると同時に「戸長ハ府県知事県令之ヲ選任ス、但町村人民ヲシテ三人乃至五人ヲ選挙セシメ府県知事県令其中ニ就テ選任スルコトヲ得ベシ」と戸長官選に改められた。
この一連の改正は自治団体としての町村の性格・機能に大きな影響を与えることになった。つまり、町村会の協議・議定の範囲はいちじるしく狭められ、しかも官選戸長が議長となることによって、上からの統制がいちじるしく強められた。
戸長官選以後も品川区域の各町村戸長にはほとんど変更はなかったが、村会議員定数は減少し、たとえば大井村の場合は三〇人から一挙に八名に減じた。このことは、町村会議員の土地所有規模を知る史料がないため断定することはできないが、一般的には町村会議員が所有土地の多い、富裕な階層によって占められる傾向を生みだしていった。
またこのとき政府は、「一町村凡ソ五百戸以上ノ者ハ連合セスシテ戸長一員ヲ置クヘシ、其五百戸以下ノ町村ハ、便宜連合スルヲ得ルモ、合テ五百戸以上五町村以上ニ及フヘカラス」として、平均五町村をもって一戸長役場管轄区域とした。このため全国的に数ヵ町村による連合戸長役場が設置され、それに伴い連合町村会が開かれることになった。前にも述べたように、品川区域においては明治十一年にすでにこの方式がとられていたが、全国的にみるならば、このとき以来、町村は独立した自治団体としての性格を失い、町村会もその自治的協議機関としての機能をいちじるしく制限されることになった。このことはやがて明治二十一年の市制・町村制施行の下地をつくることになり、同二十二年の大町村合併による行政町村の創出を準備するものとなった。