イギリスの初代駐日公使であり、極めて巧みな画才にも富んでいたラザフォード=オールコックは、今からほぼ百年余り前の品川の町の姿をつぎのようにえがき出している。
いまやわれわれは、品川〔東海道一次の宿駅〕に近づいた。ここは、すでに何回もふれたように、江戸のすぐ手前にある大きな町だ。ここでは、夜になると道路全体が灯火で明るく照らし出されて、ここにある多数の茶屋や居酒屋に出入りする人びとがあちこちをひんぱんにとおる。徒歩ないし乗物にのった両刀階級の者たちが道をふさぎ、かれらに出くわした下層階級の人びとが不幸にも災難に合うことになる。なぜなら、八時すぎともなれば、酒に酔っ払って、正気を失い、思慮分別をなくしているからだ。このからいばり屋たちは、意識が明瞭なときにはただいばりちらすだけだが、酔っ払うとなにをするかわからない。
(オールコック著 山口光朔訳『大君の都』中、二三六ページ)
まさに、維新動乱期の宿場品川と武士階級の傍若無人ぶりが、鋭くえがき出されているが、もう少しかれの筆の流れをおってみよう。
われわれは、湾のほとりにさしかかった。道は湾に面した絶壁の下を湾にそって走っている。ここは品川地区が、あたかもロンドン市内にケンジントン地区(ロンドンの西方にある自治市邑)がはいりこんでいるように、市内にくいこんでいる場所である。舗装の悪い道(砕石舗装は世界で一番よい舗装だが、それにしてはこの国の五〇マイルにおよぶ舗道は最悪の舗道だといえる)をすゝむと、ときどき家が建ち並んでいるので、右手にひろがっている湾が見えなくなる。その家々の多くは茶屋であるが、一部のものは粗末な小屋にすぎない。それらは、とおくからやってくる旅行者が腰をおろして休むところである。かれらはお茶を飲みながら、片側のさざ波をたてている海や、はるかなる海岸の美しい景色をながめたり、大きな公道ぞいの首都の風物をながめたりして、目を楽しませる。ここでは、この道が事実上の大通りであるわけだ(『大君の都』上一八八ページ)。
ところで、農業についても、かれの見聞は詳細をきわめているといってよい。
首都や神奈川港に近い地方の主な穀物や野菜は、コメ、アワ類、マメ類、ワタ、コムギ、ソバ、タバコその他の種種さまざまな野菜類である。コメは、中国と同じように栽培される。田は耕されて、水が注入される。最初小さな苗床に種がまかれ、五月か六月に苗を八本ないし一〇本ずつまとめたものを、八インチほどの間隔をおいて並べて移植する。このとき苗の高さは約六インチである。刈り入れは、一〇月にはじまる。ムギもひろく栽培されている。これは、一般に一一月と一二月にうねに種がまかれる。ある地方では、粒が無傷で良質であるようだ(『大君の都』中二三六ページ)。
現在の人家が密集する品川区域からは想像もできない品川のまちとむらであるが、江戸近郊農村として、徐々にではあれ展開をとげつつある姿を知ることができよう。