明治初年の農村は、品川区域にかぎらず、幕末期のそれと大差はない。明治二年三月の「品川県郡中制法」によれば(『品川県史料』一七五ページ以下)、
農業に精を出さず、商売の利益に目がくらんで、高利をむさぼってはいけない。農民の分を堅く守って、耕作にはげむこと。
田畠をあらさないようにし、もし水損などのため荒地となったならば、村中お互いに助け合って応援すること。
秣物や作道の邪魔にならなければ、田畠の新開に心掛けること。
用水堤・田畠之境界等、不断から申合せて、かりにも争論などおこさないようにすること。
川中寄洲などに、こっそり田畠を開いたり、樹木をうえたりしてはいけない。
これとほぼ同じ内容の「村庄屋心得条目」(『品川県史料』一八〇ページ以下)もあり、全国的にも同文のものが、幕末期までの農業への規制と同じく公布されていたのである。また明治二年は大凶作であり、東北地方では餓死者が出たといわれたが、品川県でも天候不順で収穫減少が予想されたので、同年八月以降、「破免検見入相願」う村々につき布達を出しているのは注目すべきであろう。さらに同十一月には「畑地風除之為メ楊・蘆」を植付けるのではなく「桑・茶両木」を植付けるよう積極的に奨励している。明治三年に入っても村方の「守ルベキ」、堤・川除用悪水路・村道・橋、定免・小物成、荒地起返、五人組までについて、明治二年三月制定の「郡中制法」・「村庄屋心得条目」を依然順守するよう布告されている(『品川県史料』二三四~二五一ページ)。