前述のように明治二年の大凶作は、各地の農民騒擾を惹きおこした(『明治初年農民騒擾録』)。したがって、明治政府としても、飢饉対策を重視せばねばならず、とくに新都東京での凶作・飢饉による農民騒擾の発生をおそれて、社倉を設置しようとしたのである。明治二年十一月、品川県の知県事古賀一平の命で、「社倉」をつくることが管下の村々に布達され、県から勧農方が出張して説明をおこなったという。その貯穀の方法は、石高五石以上の農民は、石高一石につき米二升づつ、五石以下の農民は極貧を除き三等に分け「上等戸米四升、中等戸米三升、下等戸米一升五合之割合ヲ以、明治三年時相場金壱円ニ付米一斗、同四年金壱円ニ付米壱斗四升ヲ石代金ニ換ヘ蓄積為レ致該県庁ヘ領置シ凶年飢歳」に備えようとしたのである(『品川県史料』二九六ページ)。もともと社倉制度は、幕藩体制にも存在していたし、村内の富裕な農民が中心となって、各村ごとに社倉をたて、自治的に管理運営していた例が多い。しかし、品川県の社倉制度は、品川県庁が一手に集中した形で、県自体が管理運営にあたる方針をとった。しかも、財政的に不安定であったとはいえ、富国強兵・殖産興業をスローガンとした明治政府の方針は、品川県にも反映して、勧誘というよりも、むしろ一種の「税」として農民にうけとられ、いわばやむなく供出したのが実情であった。元来、品川県管下の農村は畑作が多く、旧幕時代からも年貢の金納がおこなわれていたので、石代納の形、いわば村々からは貨幣で徴収し、これで米を購入して社倉貯穀をおこなおうとしたのである。その結果、管下村々から集まった社倉金は、つぎのとおりである(伊藤好一「東京府における旧品川県社倉金の返還問題」)。
明治三年 米 一、〇〇九石一斗四升九合分
(一円につき一斗替)金一〇、〇九一円四九銭
明治四年 米 九一二石六合
(一円につき一斗四升替)金六、五一四円三二銭八厘六毛
合計 金一六、六〇五円八一銭八厘六毛
(米 一、九一二石一斗五升五合分)
しかるに、県庁側は独断で、県下の多摩郡布田(現調布市)旧培養会社原泰助他四名に委託して、米穀の買入・売却に当らせ、また北品川宿鳥山貞利・大井村平林九兵衛らに貸付けていたのである。しかも、米穀相場の変動が原因で、それら委託貸付金は意外の赤字を出す結果となった。明治四年七月に品川県庁は廃止となり、東京府と神奈川・入間両県に分割されたが、明治八年以降その時点での各村の学校設立資金に廻されてゆくが、財政負担を緩和するためのその折損耗した赤字金についても、返還要求が出されてゆく。とくに、現在の武蔵野市域内に大部分が包含される上保谷・関前・梶野・戸倉・柳窪などの各新田地域を中心に、いわゆる「御門訴事件」がこれと関連して、明治三年一月十日に発生した(本書二〇ページ以下参照)(『武蔵野市史・続資料編一』二二五ページ以下)。
品川区域内の諸村の社倉取建てのための「貯穀石代金」のうち判明するものを記せば、つぎのとおりである。
(『品川県史料』二五二ページ)
一、永百五拾三貫四百五拾文 壱番組南品川宿
一、永弐拾弐貫五百文 同猟師町
一、永百三拾七貫三百七拾文 北品川宿
一、永六拾七貫九百文 歩行新宿
一、永拾七貫百三拾文 二日五日市村
一、永拾七貫三百文 品川台町
同所 本立寺門前
了真寺門前
宝塔寺門前
一、永百五拾六貫五拾文 南品川拾八ヵ寺門前
以上の旧東海道筋の諸村の供出は、明治三年初頭のものと考えられるが、県庁側は同三年十二月には、大井村地内の貯穀米倉庫設置とともに、翌年一月末までの貯穀勧誘を積極的に布達しているのであって、後年、明治八年二、三月の交、公立小学校設立原資金なる下戻金のうち判明額を示せば、つぎのとおりである(『品川県史料』七〇~七六ページ)。
一、金百七拾円七拾四銭五厘 北品川宿 品川歩行新宿
一、金百七拾八円四拾六銭八厘 南品川宿
一、金拾四円三拾三銭壱厘 二日五日市村
一、金弐百弐拾弐円弐拾七銭五厘 大井村
一、金百壱円三拾八銭八厘 戸越村
一、金三拾四円五拾銭三厘 居木橋村
一、金三拾壱円九拾八銭三厘 下大崎村
一、金五拾五円七拾弐銭三厘 桐ケ谷村
一、金七拾七円六拾六銭七厘 中延村
一、金弐拾弐円五拾九銭弐厘 小山村