検見規則と沽券制度

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明治維新後も、従来天領であった品川宿はじめ区域農村は地租をはじめ一般の租税は、従来のままであった。さきにもふれたように、品川県が明治二年三月公布した郡中制法・村庄屋心得条目・寺院制法は、よくこれを示している。明治二年の凶作に対しては、「田方破免検見」を願出るように布達しているのである(『品川県史料』)。しかし、これは土地の売買取引の慣行を何ら否定するものではなかった。幕末期までにも、江戸や京都など大都市で実際行なわれ、明治維新後も廃止されずに、公認されていたとも考えられる。つまり「沽券」とは元来売買証書を意味し、「沽券制度」とはその所有を証明するものが、所有権移転に際して、引渡されて多少の証券的作用をもつに至る。東京府や京都府では、民間の便利と「旧慣ニ依ル」事情も加わって、公然たる制度としたといわれている。もちろん、この東京府は品川県をも含む新東京府とは異なるが、横浜・神戸両港の場合には、開港場ないしは居留地設定が原因で、沽券の書替方式をとったのに対して、旧東京府の場合は、明治二年四月に町触を出し、幕末期までの手継証文の伝統をひいて、沽券には継紙を貼り足して所有権を移転させたといわれている。ところで、明治三年七月には、五公五民を基本とする「検見規則」が、政府の直轄府県たる品川県にも布達された。いわば、地租改正の前段階ともいうべきものである(福島正夫『地租改正の研究』)。それは、明治維新後まだ日が浅く、検地は農民が最も忌み嫌う所であるから、三年から五年の間検見で、収穫調査をおこない、公平な課税額を定めようと企図したためであった。品川県は明治三年九月二十五日廻状を出し、荏原郡南品川宿を手始めに、妙国寺領・貴船神社領・北品川宿・清徳寺領・品川神社領の順で検見を始め、翌二十八日には戸越村・下蛇窪村・不入斗村・新井宿村などに移っている(『品川町史』下巻、五七四ページ以下)。なおこれと関連すると思われるが同三年四月以降、品川県管内所在の諸藩抱屋敷・抱地の「相対譲渡」が始まっている。その年七月五日には、「上知屋敷」の入札払下について布達されている(『品川県史料』二六二~二六五ページ)。さらに、これと大略平行して品川一八ヵ寺門前、其他門前地名も廃止されてゆき、同時に地役人も廃止されて、最寄の宿村に合併されてゆくのも見落せない。