廃藩置県と地租改正

74 ~ 75

いうまでもなく明治政府は財政的基盤を確保するためにも、さらに、全国公平の租率を課するためにも、府・藩・県制度を改めて、廃藩置県を断行する必要があった。明治四年七月十四日の廃藩置県の実現は、こえて九月四日に田畑勝手作の布達、さらに十二月二十七日には、東京府下を始め三府の、従来「武家地町地ノ称アルヲ廃シ一般地券」の発行を導いてゆく。翌明治五年一月に大蔵省から東京府に対して、「地券発行地租収納規則」二八条が布達され、東京府はこれをうけて、同年二月十日に、「地券申請地租納方規則」二四条を管内に公布した。それは一筆一用紙主義をとり、地券には地番・表口・裏幅・奥行も記載されている。地租は、地券金高の百分の二(のち同年六月より東京府では、府民の強い反対で百分の一に半減された)、また庁費金として税金一円につき金三銭を納付すべきとした。後述するように、市街土地は地券価格が農地にくらべて著しく低くされたことは疑いない(福島正夫『地租改正の研究』、『東京百年史第二巻』六四三ページ以下)。またこれと並んで郡村地すなわち耕地については、同五年三月二十四日「土地売買譲渡ニ付地券渡方規則」が布達された。ここでは、土地所有の確証とはされるが、租税とは関係がなかった。これら市街地地券と郡村地券の両者を合して、壬申地券という。明治五年の干支が壬申なのに因んだものであって、壬申戸籍と同じ謂である。しかも、この壬申地券の発行では、地券の名請が大問題となった。それは、地券面の所有者を確定することであるが、「一地一主」の原則を通じて、まさに土地改革が必然化してゆくこととなった。つまり、各筆の土地には、それぞれ単一の所有者が確定されることとなるからである。これが、一つの契機となって、明治六年七月二十八日の「地租改正法」の公布へと移行する。


第11図 地券