農談会

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もっとも、農談会には当時いろいろな名称があり、明治八年京都府紀伊郡の種子交換会、明治十一年の愛知県北設楽郡の農談会が、それらの嚆矢とされている。各農談会のうち、第一回開催の時期は、全国農談会がもっとも早かった。すなわち、東京上野公園で明治十四年三月一日より三ヵ月間第二回内国勧業博覧会が開催されたが、これを機会に、同明治十四年三月十一日から二十五日まで浅草東本願寺で内務省勧農局の招集した三府三十七県の老農一二〇名が一堂に会して、第一回全国農談会が開かれたのである。

 時の内務卿松方正義が勧農局長品川弥二郎とともに来場、開会の挨拶をなし、「農業は国の基本であるから、よろしく平素の経験智識を交換し、国家の力を増進するように」とのべ、十五番会員で東京府南足立郡五兵衛新田の金子健重が答辞をのべている(「明治十四年農談会日誌」『日本農業発達史』第一巻所収)。諮問事項は、全国の作物の選種・人耕と牛馬耕・肥料・収穫・俵装・貯蔵・力農組合の設立・循環作付の方法まで多岐にわたっている。一番会員は前表にのっている荏原郡上北沢村鈴木久太夫、二番は荏原郡蒲田新村宿斎藤新太郎、三番は東多摩郡中野村佐々木久和である。


第13図 「農談会日誌」

 つぎに、荏原郡関係の発言内容を摘記してみよう。

 

○二番(斎藤新太郎)我東京府武蔵国荏原郡辺ハ稲ヲ刈リ二尺五寸位ノ縄ニテ束ネ直ニ扱取テ家ニ運ビ順次ニ之ヲ治ム且早稲収入ノ頃ハ日光烈ク一日ニシテ乾ケトモ中稲ハ二日晩稲ハ三日間ヲ要ス其乾燥度ハ囓ミ試ミ(パッチ)ト響クヲ以テ知ルヘシ若シ乾シ過クルトキハ米ノ粘力ヲ失ヒ硬クナリ臼ニ掛ケテ砕ケ易シ……又近来ハ一番米二番米三番米ヲ撰別セスシテ売出スガ故ニ又粗悪ニ流ルルノ弊無キ能ハストス

○一番(鈴木久太夫)……即今多ク作レル米ハ奈良専二ノ撰ヒタルトテ之ヲ「センジ」ト云フ又薩摩種ト云モ作レリ何レモ近年ノ種ナリ従前ハ川越稲名及大白稲名ヲ作リタルカ是レハ良種ナリキ

○一番(鈴木久太夫)我東京府武蔵国荏原郡辺ハ大麦穂ヲ抽ンスル後四十日ニシテ熟ス之ヲ刈リ畑ニ樹テテ乾晒シ雨天ナレハ家ニ運ヒ麦扱ヲ以ヲ穂ヲ収メ日光ニ曝シテ打簸シ扇車ヲ経テ苞装ス小麦ハ茎頭狐色ヲ帯ヒテ穂ノ傾クヲ度トシテ収納セハ其色稍白ク見ユルニ至テハ適度ヲ過キタルナリ斤量多クシテ益アリ総テ苞装ハ緊密ナラサレハ虫蝕ノ害ヲ受ク又麻袋ニ入ルヽハ布目ヨリ外気透入ノ患アリ

○二番(斎藤新太郎)……荏原郡辺ハ白麦大麦ノ晩種ヲ作ルモノ多シ刈収ノ期ハ五月ノ節ニ入リ麦穂少ク青ミアル内ニ刈取ルヲ良トス刈上ケタルモノハ其儘田面ニ乾シ置キ翌日上下ヲ翻シ普ク日光ヲ受シメ適宜ニ之ヲ取入レ麦打台ニテ子粒ヲ打分ケ普通ノ手順ヲ経テ更ニ曝乾シ苞装シテ貯蔵ス尤モ此白麦ヲ作ルハ麦茎ヲ以テ帽子其他ノ玩物製造ニ供シ別ニ収利ヲ謀ルニヨル

○一番(鈴木久太夫)我東京府近在ニテハ水田多ク従来牛馬ヲ以テ耕ス事ナク皆人耕ニ由レリ畑モ土質ノ軽キヲ以精細ヲ要セサレハ牛馬ノ力ヲ假ルニ及ハス且牛馬ヲ飼フハ費用ノ点ニ於テモ引合ハサルナリ

○二番(斎藤新太郎)………東京府……近在ハ絶テ牛馬耕ヲ為サズ土質軟カナレハ人耕ニテ足レリ而シテ田一段歩ヲ耕スハ壱人二日ノ業トシ畑壱段歩ヲ耕スハ壱人三日ノ業トス

○二番(斎藤新太郎)人糞尿ハ新シキヲ施スハ有害ナルモノナレハ宜シク十日以上経過セシヲ用ウルヲ良トス田畑共ニ壱段歩ニ凡二石二斗ヲ施スヘシ(「明治十四年農談会日誌」『日本農業発達史』第一巻所収)

 

 ここでは、関東農村の生産力の低さが、地質によるとはいえ、牛馬耕の未展開に示されており、半面で「白麦」を原料とした麦藁帽子の生産にみられるように近郊農村への貨幣経済の滲透がしられよう。