荏原郡農談会

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つぎに、東京府主催の農談会は、府下六郡連合の形式で、さきの全国農談会の約一ヵ月後に荏原郡で開催され、以降毎年二回、各郡の持廻りで開かれたといわれている(『東京百年史』第二巻)。ついで荏原郡農談会も、おそらく明治十四年に第一回の会合を開き、以後毎年二回、大略定期的に老農が参集して、農業技術や農業経営について意見を交換している(『東京百年史』第二巻、『目黒区史』)。

 品川区域内での出席者は、上表のとおりである。この荏原郡農談会はいずれも北品川宿玄性院を会場としているが、稲作の虫害予防、特産物の実況、作物改良、農具改良など荏原郡全域の農業生産の具体的な姿が報告されているのである。次に品川区域関係の老農の発言を摘記してみよう。

第13表 品川区域内の荏原郡農談会出席者
年月 第4回 第5回 第6回
村名 明治16年5月 明治16年11月 明治17年4月
北品川宿 清水秀蔵 清水秀蔵 清水秀蔵
南品川宿 山田佐兵衛 松浦治兵衛
桐ケ谷村 鮫島吉右衛門 松沢久兵衛
戸越村 斎藤兵三郎 鈴木栄吉
小山村 山本七右衛門 石井弥五右衛門 山本七右衛門
大井村 酒井富次郎 宇田川権蔵
その他とも合計 21名 19名 23名

(明治16,17年『回議録』,『目黒区史』より再引)

○荏原郡第四回農談会(明治十六年五月一日)

〔なお、前会頭鈴木久太夫(上北沢村)は欠席して、あらたに田中喜兵衛(上目黒村)が会頭にえらばれている。まず、水稲播種より苗移植までの時期などについての質間に対して〕

○十八番(大井村酒井富次郎)曰ク、本員地方ハ植田ト蒔田トアレトモ植田多シ、種ハ一周(ママ)間水漬五月二日ヨリ三日間中ニ苗代一坪ニ早生八合中生七合晩生六合ヲ水蒔ニナス、尤田一反歩ニ種籾早生一斗中生九升晩生八升普通ノ割合ヲ以テ苗場ノ坪ヲ究メ、播種ヨリ二昼夜水ヲ掛ケ置キ晴天ヲ見テ水ヲ干シ、夫ヨリ二周間程度ノミ水ヲ掛ケ以後ハ不絶水ヲカケ置ク……(後略)

○五番(桐ケ谷村鮫島吉右衛門)曰ク、本員桐ケ谷村辺ハ蒔田多アレトモ苗代蒔付ハ五月三日ヲ度トシ以後三日間ニ播種終ル、尤播種二三日前苗代拵ヘ上ケ一坪ヘ籾七合ヲ水播キニナス、一反歩ニハ種籾八升ヨリ九升ヲ要ス、蒔田ヘハ反ニ付一斗二升迄ヲ播ス、苗播キテ苗干シト云フテ昼ハ水ヲ干シ夜ハ水ヲ掛ル……(後略)

〔ついで本田と苗代の手入方法および人畜使用の順序などについて〕

○八番(北品川宿清水秀蔵)曰ク、本田ハ耕起シ是ヲ切返シ、次ニ馬ヲ入レ初代ト云フテ三回ヲナシ、四五日間措キテ中代ニ二回、植代二回ヲ掻キ高低ヲ均シ植付ヲナス、又苗間ハ狭少ノ坪ナレハ馬不用人夫ヲ以テ一層入念シロヲ成ス、馬ハ一頭ヘ人一人付荒シロヲナスハ一日四五反歩、中シロ植シロニ至リテハ六反歩位ヒヲ掻キ上ル……(後略)

○十八番(大井村酒井富次郎)曰ク、本村ハ田地深クシテ馬ヲ不要、総テ人手ニテ荒起シヲナシ、手代ロト云フヲ七八回ナシ植付ル、一反歩田拵三四人ヲ要ス、

(都政史料館所蔵、『目黒区史』資料編九六三ページ以下より再引)

○荏原郡第五回農談会(明治十六年十一月十二日)

〔ここでも、会頭鈴木久太夫欠席のため、桐ヶ谷村鮫島吉右衛門が会頭席につく。まず、東京府勧業課より下付した種子の試作状況について〕

○八番(北品川宿清水秀蔵)曰ク、前稲種三升下付ノ中壱升五月四日苗代ヘ播付、六月下旬四拾五坪ノ田ヘ栽付、七月上旬一番草ヲ採リ、中旬ニ至リ人糞一荷半ヲ施二番草ヲ取ル、八月初旬ニ三番草ニテ終ル、田ハ冷地ナレトモ出来至テ宜シク八月甘日頃出穂ス、最モ早生ナリ、十月一日刈取其収穫玄米三斗五升ヲ得ル、

〔つぎに、秋田県下産の兄大豆試作状況などについて〕

○五番(桐ケ谷村鮫島吉右衛門)曰ク、本年五月上旬兄大豆ノ種二合余下付ニ付、麦畑ノ間深サ三寸程ニ作リ元肥ニ人糞エ灰ヲ混シ振リ付施肥ニナシ、拾二坪程ニ播種ス、五日間ニ発芽ス、五寸位ニ生育シテ一番作ヲ切リ、夏土用前ニ二番作ヲ切リ、土用明ケニ至リ開花頗ル繁茂ス、最モ晩生故金亀虫(方言カフタムシ)多ク着キテ駆除法ニ苦ム夜間ニ焚火シ又ハ朝霧ノアル中笊ヘ振ヒ取ルモ尽キス、十一月初旬ニ至リ採収スルニ粃豆ノミ僅少ヲ得タリ、全ク該種ハ土地ニ適セサルヤト考フ、

○五番曰ク、本員馬鈴薯種ヲ東多摩郡本郷村川本某ヨリ求メ試作スルニ、彼岸ノ頃作ノ深サ三寸位ニ切リ薄屎ヲ引テ栽播シ、凡十日間ニ発芽ス、三四寸ニ生育シ一番作ヲ切ル、二番作ニ際シ薄キ人屎ヲ引施シ、七月下旬ヨリ採収シ僅カ三畝歩ニテ売上金凡四円ニ及フ、又馬鈴薯再播作ハ種ヲ屋中土間ニ置キ刈草ヲ冠フセ一時ニイキレヲ掛ケ芽発セシメ土用中ニ栽付ルナリ、

○八番(北品川宿清水秀蔵)曰、大豆ヲ播クハ藁灰ヲ嫌フ、麦糖或ハ麦藁灰ヲ施肥スレハ諸虫着カス、随テ収穫多シト考フ、

○五番曰ク、本員地方薄地ニシテ諸作共他ニ劣ルヘシ、中ニモ大豆ハ年々多少カウタ虫(方言)ノ害ニ遭フ、故ニ衆ニ謀ルニ朝顔ヲ蒔キ込予防ス説ヲ聞キ之レヲ行ヒタルニ其効ナシ、

〔つぎに、螟虫予防については〕

○五番(桐ケ谷村鮫島吉右衛門)曰、水油ヲ用ヒルモ前説ノ如ク効アリ、

〔最後に、草綿播種とその手入方法などについては〕

○八番(北品川宿清水秀蔵)曰、本員近傍ニ於テ蕃瓜ヲ多ク作ルニ、近来玉ノ少形ニナリシヲ考フルニ、終花ノ際余リ肥ヘタルハ結実悪シキ故ニ一時ニ施肥スル者多シ、因テ本員施肥ヲ三、四回ニナシ試ミシニ余程大形ニ成ル、尤モ壱反歩畑ニ肥料人屎拾五荷ヲ用ヒ、南瓜七百個此売価金拾壱円ヲ得ル、 

(前掲『目黒区史』資料編九六八ページ以下)

 

明治十年代というデフレーションの進行のなかで、東京近郊農村の性格をもつ区域内の諸村は、低生産力から脱却すべく、いろいろな試みをおこなっている。政府の農業政策をうけて、東京府より稲の新種、あるいは馬鈴薯・秋田産大豆・蕃瓜(蕃茄とも書きトマトのこと)などの導入がおこなわれてぃるのであるが、区域内農村での老農をもってしても、かならずしも安定した生産なり、高い収益をもたらしてはいなかったようである。たとえば、荏原郡農談会の開催と同じころ、東京府勧業課の調査した農家の米麦生産の収益状況を示したのが、第14表である。府下六郡のうち、南葛飾・南足立が首位を争い、江戸川・荒川流域沿岸の生産力の高さは、米・麦の反収にも示されている。第三位の荏原郡は東多摩郡と反収において大差はないが、米麦収益を合計してみると、東多摩郡は、結局欠損を生じているのである。もちろん、麦を中心とする畑作生産は、この調査時点では府下六郡に共通して欠損を示すのであって、畑反別の多い荏原・東多摩両郡は、麦作経営の不況さが強い影響を残しているものと考えられる(『目黒区史』資料編)。いってみれば、いわゆる「泰西農法」が必らずしも定着してゆかない反面で、老農を中心とした農業指導も結局成功とはいい難く、稲作生産に単一化してゆく傾向のなかで、畑作比率の高い荏原郡の苦況が示されているものといえよう。

第14表 東京府下4郡農家の米麦損益

(明治16年7月)

郡名 荏原 南葛飾 南足立 東多摩
項目
1戸当人数
5.2 4.8 4.3 5.0
穀名
反別
1.8.03 3.6.23 4.2.08 1.2.02 4.6.23 1.9.17 1.7.09 7.9.28
収穫
3.623 7.8.5.8 9.2.9.5 3.017 9.633 4.757 3.459 16.785
反収
2.01 2.16 2.21 2.50 2.08 2.48 2.02 2.11
(a)売価
24.15 15.716 61.97 6.033 64.22 9.513 23.062 33.57
地価
99.294 54.316 362.875 23.988 277.528 37.823 79.97 110.813
正租 2.482 1.358 6.572 0.60 6.938 0.946 1.999 2.77
地方税 0.827 0.453 2.191 0.20 2.313 0.315 0.666 0.923
戸数税 0.686 0.375 0.849 0.077 0.591 0.081 0.47 0.652
協議費 0.422 0.231 1.927 0.176 1.424 0.194 0.425 0.590
農具損料 0.793 1.339 2.303 0.358 2.633 0.783 0.635 2.662
肥料 13.132 14.019 23.239 5.369 30.395 13.369 12.937 35.168
(b)(正租以下)小計
18.342 17.775 37.081 6.78 44.294 15.688 17.132 42.765
損益(a-b)
5.808 (-)2.059 24.889 (-)0.747 19.926 (-)6.175 5.93 (-)9.195
米麦損益計
3.749 24.142 13.751 (-)3.265

(注)『目黒区史』資料編,資料158より作成。

 なお、この荏原郡農談会と平行して、荏原郡山林会も開かれており、大井村平林九兵衛も参加している。雑木林の改良や、桐林の保存方法とならんで、梨子園の栽培方法も議論されている(『目黒区史』資料編九七二ページ以下)。