明治維新と用水保護

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すでに、慶応四年六月四日、品川用水・三田用水の水源たる玉川上水は、神田上水とともに明治政府に引渡され、ついで市政裁判所の管理に移った。品川領惣代伊藤清八郎・大井村名主大野貫蔵の両名らは、府下境村と羽村まで出張して当時の状況視察を試みている。明治二年二月二日には、民部省会計官営繕司の管理に移り(『品川町史』下巻八二九ページ以下、『品川用水沿革史』七六ページ以下)、翌三月の「郡中制法」・「村庄屋心得条目」でも、用水堤については争論のないように努め、「溝川・道橋・堤防」なども大破にならないうちに修理し、河川敷などで勝手に田畑を開いたり、樹木を植付けたりしてはいけないと、布達している(『品川県史料』一七八~九ページ)。七月、太政官からの「府県奉職規則」をうけて、大蔵省は「府県職務章程」を公布、田畑の培養、開墾のためには、堤防などの修繕・保持にも注意し、複雑な修繕は、民部省との協議によるとはいえ、各府県の専断施行を許可している。つまり、農業生産に必要な水利関係の維持に万全を期しているといえよう。

 さらに、廃藩置県後、明治四年十一月から用水は東京府の管轄に移った。