品川用水

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従来、品川用水は品川領九ヵ村と仙川組(現調布市)四ヵ村の専用であったが、地租改正の折に、区域内の下大崎村および新井宿村(現大田区)を加えて協議の上、品川用水組合は十一ヵ村となった。下大崎村は、目黒川南岸に位置したため、三田用水の恩恵に浴せず、また新井宿村も六郷用水の恩沢にも浴することができず、ともに旱損に苦しめられていたのである。この頃の組合村の田反別は第15表の通りである。ここでの品川用水の役割の大きさを知ることができよう。ただ北品川宿・大井村・居木橋村・下大崎村(後述の三田用水分を加えると灌漑面積の方が多くなる)を除けば、総水田面積を灌漑面積は上まわっているのであるが、その理由は明らかでない。品川用水の「養水受持人」は下蛇窪村の伊藤受房であり、各区域農村から、戸長ないしは地主・老農が総代として用水組合の協議会に加わっていると考えられる。明治十年十一月の協議会では、養水受持人の給料・雇人の給与・養水修繕費・旅費その他を組合の灌漑水田反別割に賦課すべきものと定めている。

第15表 品川用水の灌漑反別

(『品川用水沿革史』)

項目 品川用水反別(A) 総水田反別(B)
村名
反 畝 歩 反 畝 歩
北品川宿 116.1.09 192.1.11
南品川宿 316.4.18 216.0.27
二日五日市村 60.9.27 53.0.09
大井村 785.0.03 800.0.16
上蛇窪村 68.4.08 57.9.27
下蛇窪村 76.8.28 67.7.23
戸越村 84.0.19 65.5.24
桐ケ谷村 184.5.26 149.0.27
居木橋村 205.1.06 21.7.27
下大崎村 7.0.29 147.8.18
(その他とも)総計 1,931.6.29

(注) (A)は地租改正時(明治9年か)
(B)は「東京府村誌」(明治11年)ただし,上蛇窪村・下蛇窪村は「東京府志料」(明治7年)による。

 さらに、明治十三年二月六日より品川小学校において、「品川養(用)水組合町村聯合会議」を開き、毎年の諸費用の分担取極めのほか、各村に養水担当掛一名づつをおくこと、従来の養水受持人伊藤受房が病気のため、これに代わって、各村より二名の受持人候補を投票で定めることなどを決めている。また、区域内農村の手工業の展開に対応して、水車営業と水田灌漑との利害の対立が生じ、用水路は戸長役場が管理すべきものであるから、各町村別に水番人を撰定して、見廻りにあてるべきだとしている。ただ、この場合も、「聯合会議員」の選出は、各町村別の投票によるとはいえ、小前層の反対は効力なしとしている点で、区域内農村の上層・地主・老農の利害がもっとも端的に貫かれていたものと考えられよう(資四二八号)。

 明治十三年四月八日、太政官より「区町村会法」が公布され、その第八条に「水利土功ノ為メ町村ノ決議ヲ以テ其関係アル人民若クハ町村ノ集会ヲ要スルトキハ其地方ノ便宜ニ従ヒ規則ヲ設ケ府知事県令ノ裁定ヲ受クベシ(翌明治十四年「水利土功ノ為其関係アル人民ノ集会ヲ要スルトキハ其地方ノ便宜ニ従ヒ規則ヲ設ケ府知事県令ノ裁定ヲ受クヘシ」と改訂)」とあり、東京府を経由して示達されたため、品川用水組合村々も、従来の聯合会規約を訂正し、「荏原郡品川用水組合村々集会規則」を作成、その裁定願を東京府庁に提出した(詳細は『品川用水沿革史』八九ページ以下)。ここでは、集会議案は戸長協議とし、議員の選挙は、各町村会議員の間で投票互選することとしている。この規約は、明治十四年三月廿三日付で東京府知事より裁定され、以後毎年集会および聯合会が開催されることとなった。明治十八年十二月十四日の会議では、用水担当人を二名とし、聯合町村会議員で選挙するものとされ、翌十九年四月の聯合会では、用水の管理人を郡長とした点が注目されよう。