幻のビール工場

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品川県は、独自で授産事業のため、窮民救助のために、明治二年二月、ビール製造所を設立した。誰のプランで、どう建設したかは不明だが、アメリカのペリー提督来国の折にビールがはじめて知られ、日本では明治九年北海道の元札幌麦酒会社が醸造の開祖といわれているから、明治初年としては画期的なことだった。大井村の名主であり、幕末期に潮田村(現在の川崎市域内)の干拓や大井鈴ヶ森海岸の埋立を試み、鹿児島藩や高知藩の出入りの商人でもあった平林九兵衛の建議によるものだともいわれている。おそらく開港の結果、外国人がビールを飲むことを知り、その醸造法をきき出して、県知事古賀一平に進言した結果とも考えられる。ともかく、県営事業として、大井村字浜川地内松平土佐守下屋敷跡(現在の東大井三丁目)に、建坪六二坪半のビール製造所を設立したのである。

 品川県としては、廃藩置県後の明治四年十月、民間に払下げることとして、旧岸和田藩主岡部長職の家令井谷平八郎名儀の願書が提出されている。建物付属設備とも四、〇〇〇円に評価されて、払下げ当時の手金として一、五〇〇円、明治六年十一月に五〇〇円、明治八年二月に一、〇〇〇円、翌九年十月に五〇〇円が納入された。最終の五〇〇円は、明治十年より三ヵ年賦という約束にはなったが、これが完了したか判明しない(『品川県史料』一〇一ページ以下)。ともあれ、明治初年の動乱期に、時代の先端をゆくビールが品川の地で醸造されたのは面白い。