ガラス製造の興業社

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明治六年、品川宿東海寺裏の目黒川べりに(北品川駅百一番地)、興業社が創立された。太政大臣三条実美の家令であった丹羽正庸と村井三四之助の発起によったものである。すでに、村井三四之助は、在京のイギリス技師ガールの下で、硝子製造業の大要を知り、研究を重ねた上で、三条家の家令丹羽正庸を説き伏せ、三条実美の援助もうけて、水利に便利な目黒川沿岸を撰んだのである。当時としては、必要な機械器具・坩堝用粘土および耐火煉瓦など、すべてをイギリスより輸入したという(『日本近世窯業史』)。原料については、従来、いわゆる安房砂と神奈川県保土ケ谷付近の硅酸原料が知られていたが(『明治工業史』化学工業編)、当初純白な原石でなければ、硝子は製造できないと思い込み、甲斐(現在の山梨県)の特産ともいわれる御嶽山の水晶を原石としたといわれている。当時の技術水準の一端が知られよう。のち、板硝子の原料に白砂がよいことを知り、伊豆白浜海岸(現在の静岡県)の原料を品川へ運搬したという。職工としては、従来のギャマン職人を高給を払って、東京・大阪から募集したのである。またイギリスから技師として招聘した硝子工トーマス=ウォルトンの来着をまち、坩堝の製造に着手したといわれている。しかしながら、吹き竿一本の在来のギャマン職人をもってしては、板硝子の製造は無理であった。