明治九年四月、工部省は興業社を三万円で買収して、製作寮の所管とした(資四三〇号)。ひきつづき、トーマス=ウォルトンを中心に作業を進め、明治十年十一月には、舷燈用紅色硝子の試作、明治十二年四月には、さらに硝子工ゼームス=スピードを雇って、食器などの製造を開始している(『日本近世窯業史』)。
これよりさき明治十年一月の官制改正で、製作寮は工作局となり、大鳥圭介が局長となった。そして品川硝子製造所は品川工作分局と改称した(『工部省沿革報告』)。ところで、さきの舷燈用紅色硝子の試作には、日本人として藤山種広が参加している。かれは、すでに幕末期に佐賀藩主鍋島侯の経営に伝わる硝子工場にあって、硝子製造の経験をもち、明治六年オーストリヤの首都ウィーンで開催された勧業博覧会に佐野常民の随員として渡墺、活字・活字紙型・硝子・鉛筆の各製造技術を研究して翌七年五月に帰国したのである(『澳国博覧会参同紀要』)。かれは舷燈用紅色硝子のほか、模様硝子・小板硝子をも試製したという。なお、のちかれは佐野常民のすすめで、井口直樹と共同して本邦の鉛筆製造業者の始祖ともなってゆくのである。
ところで、これまでのフリント窯は高熱になるためか故障を起こし、イギリス製の耐火煉瓦をもって改築した。明治十二年六月三十日のことである。この年の暮、十二月二十五日に、品川工作分局内に化学実験所を新設し、赤鉛・炭酸加里などの化学製品の製造も始めた。工部大学校(現在の東京大学工学部の前身)化学教師ダイフルスの監督の下、工部大学校化学専攻の学生もこれに参加させている。のち明治末、この地に三共製薬株式会社の品川工場が設置されるのも何かの因縁であろうか。明治十四年二月になって、やっと宿願の板硝子製造に着手したが、完全に成功したとはいいがたく、翌十五年にいったん中止、また十六年に再び着手したが、まもなく廃止された。この間、明治十四年三月には、第二回内国勧業博覧会に各種硝子製品を出品して二等賞をうけている。板硝子製造中止と期を同じくして、明治十六年二月には、化学実験所も廃止され、硝子工スピートも解雇されている。おそらく、本邦フリント硝子の技術伝習の目的がひとまず達成されたためといえよう。また硝子製品販売のため、商人杉田幸五郎に命じて、京橋区出雲町(現中央区銀座七丁目付近)に品川工作分局製造硝子売捌所を開店させている。明治十六年九月二十二日には再び品川硝子製造所と改称し工部省鉱山課の直轄としたのである。この年の十一月以降、品川硝子製造所は、官業払下げの趨勢にしたがって、民業移管、あるいは資力ある商人に貸与して営業を継続せんことを、太政官宛に要請しているのである。