稲葉正邦・西村勝三への払下げ

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さっそく、これに応じたのが旧淀藩主で華族の稲葉正邦および製靴や製革業など手広く商売を営んでいた西村勝三であった。当時、明治政府は鉱山・造船所などを中心に、紙幣整理・財政緊縮の理由から、それらを払下げようとしており、他面では間接的な保護を加えながら、いわゆる殖産興業政策を推進しようとしていた。工部省大書記官中井弘(のち、滋賀県知事など歴任)を介して、西村勝三に話があったのが明治十六年十二月ごろであった。西村勝三は稲葉正邦に出資を仰ぎ、翌明治十七年二月に共同して、今後十ヵ年間の貸与を出願したのである(『西村勝三翁伝』)。明治政府としては、品川硝子製造所の地所・諸機械の価格を六万六三九三円余と見積り、その二十分の一に当る三、三二〇円に相当する公債証書を保証として提出させ、貸与料は純益の十分の二、また製造用薬品や半製品の評価額一万三六四五円余を五ヵ年賦で上納させようとした。西村勝三は、当初から前述の如き技術的制約もあり、硝子製造業の収支償いがたきを予想して、三万円の補助を明治政府に申請したが許可されなかった(『工部省沿革報告』)。その間の概況を伝えるのが上の表であるが、営業内容は改善されたとはいえ、収支ほぼ成立つ状況だったといえよう。当時の製造品としては、陸軍用水瓶・薬瓶・洋燈用油壺・食器・理化学用器などがあるが、水瓶や薬瓶以外は利益が少なかったという。このため稲葉正邦らは将来に不安を抱き、政府への返納を考えたが、西村勝三は、あらたに磯部栄一と共同して、評価額七万九九五〇円、五ヵ年据置きの五五ヵ年賦という条件で明治十八年五月二十八日に、明治政府より払下げをうけたのである。その間の事情を示すのが第18表であるが、西村勝三は、さっそく海外での硝子工業の視察と技術改良法の探求のため、翌年渡欧、フランス・ベルギー・ドイツ・イギリスの有力工場を訪問、ドイツ人ジーメンスの発明した複熱式窯の導入を企図し、日本で改築を試みたが結局成功せず、明治二十年十月には、再び品川硝子製造所の技師中島宣をドイツに留学させ、実地研究に当らせてゆくのである。

第17表 品川硝子製造所の営業比較
年度 官業期(1883年度) 民間移譲後(1886年度)
項目
役員 22人 15人
職工数 105人 102人
15人
収入 12,014円 35,258円
支出 29,996円 35,162円
損益 △17,982円 96円

(注)(1)田中修「工部省所管事業の払下げと三池炭鉱の払下げ」による。
(2)△は欠損を示す。

第18表 品川硝子の営業概況
営業期間 1875~76年 1877~1883年
営業収入 10,714 76,388
営業費 235,628
損益 10,714 △ 159,240
興業費 72,439 117,192
純損益 △ 61,725 △ 276,432
払下価格 79,950
払下後の未償還高 △ 258,207
払下条件 1892年より55カ年賦

(注) 前掲,田中論文による。