硝子工業におけるその窯の優劣と、それと関連する職工の技術は決定的と考えられるが、板硝子製造に限らず、硝子工業全体の技術的基礎としても重要であった。その意味では、品川硝子製造所が官営から、民営に移るに際して、そこでイギリス人技師の下で養成された職工たちは、西村勝三の品川硝子に残るもの、東京市内に散在するもの、大阪へ移るものなどがあり、既設の工場が独立してガラス工場を開いたりしてゆくのであった。後年の品川硝子や、日本光学に関係をもつ岩城滝次郎が明治十四年に京橋区新栄町に硝子工場を開くが、かれは官営時代には職長であったという(『明治村工部省品川硝子製造所』記念展示の年表、『日本光学工業株式会社二十五年史』)。さらに、その窯の構築には耐火煉瓦が必要とならざるをえない。すでに西村勝三は明治八年フランス人ペレゲレンの指導により、元ガス局付属地で芝区(現港区)芝浦に耐火煉瓦製造を開始し、明治十六年に、深川区(現江東区)清住町の深川工作分局の系譜をひく白煉瓦工場の払下げをうけ、芝浦工場と合併して、伊勢勝白煉瓦製造所を設立、さらに深川セメントの公害問題に伴う移転とも関連して、明治二十年品川硝子製造所に接して、旧深川工場を移転し、改めて品川白煉瓦製造所と改称し、相互に技術的交流を図ろうとしたのも、決して偶然ではなかったのである『西村勝三翁伝』、『品川白煉瓦合資会社事歴』)。
因みに、緒明(おあき)造船所は品川台場を中心に明治十年代に展開をみせており、日本ペイントの前身たる光明社は芝区三田四国町に創設され、後藤毛織も本邦民間毛織物工業の苦心の道を、ともに明治十年代に営み始めてゆくのであるが、品川区域に移転してくる明治二十年代以降で、遡ってふれることとしたい。