明治維新と陸上輸送

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徳川慶喜の「辞官納地」問題の発生から、鳥羽・伏見の戦、徳川慶喜の追討、東北征討に至る「戊辰戦争」の発生は、陸上輸送の問題をば、明治新政府にとって重要不可欠の問題とさせるに至った。それは、戊辰戦争を勝ちぬき、統治権の滲透をはかるためにも絶対に必要であった。しかし、追討がすすみ、明治政府の基盤が拡大するにつれて、従来の軍事輸送は、漸次関東以北に移り、関東以西とくに、東京・京都の間では、普通の通行や輸送の比重が次第に増大してゆくこととなる。このような状況のなかで、明治新政府が幕府からひきついだ陸運制度は、宿・助郷制であった。いうまでもなく、この宿・助郷制度は、幕府権力の確立と安定のために、幕府自身によって、直接整備されてきたものであるが、明治新政府にとって、軍事的・行政的に利用されるのに好都合な側面をもっていた。宿役人による宿・助郷人馬の強制的な割当と無賃あるいは定賃銭での利用は、大変に好都合であった。と同時に、他方ではかかる宿駅制度は当時可成り深刻な矛盾を内包していたといってよい。長年の無賃・定賃銭による休泊や人馬の徴発は、疲弊と通行量の増大による継立人馬の不足をもたらさざるをえず、宿や助郷との間でも、人馬の割当をめぐって不断の争いを生じさせていた(山本弘文『維新期の街道と輸送』)。この点は上巻にもふれた通りである。

 しかしながら、明治政府は、かかる状態を改善策で乗切ろうとしたにすぎない。明治元年四月には、駅逓司を会計官の下におき、宿駅役所を駅逓役所と改め、従来の「宿」も「駅」と改称した。明治二年二月三十日には、物価騰貴と全国諸道の通行が活発となったので「諸道関門廃止」となり、これとともに困窮と離合集散防止のため「東海道駅駅助郷」が組替えられている『品川県史料』。

 これより早く、明治元年六月八日には、定備人馬は、助郷同様宿高に応じて差出すことになり、歩行人足も宿・助郷合併の上は、必要に応じて差出すこととしたのである。しかるに明治三年三月末日限りで駅郷合併は廃止となり、翌四月一日より定備立人足を一駅一〇〇人と定め、再び助郷の付属を復活した。このため従来の五、〇〇〇坪の地子免は廃止されたため、つぎのような請書を品川県庁に提出している(『品川町史』下巻二四三ページ以下)。ただ、これは、表面上の廃止で、逆に助成米の施給も復活されたのである(山本弘文『維新期の街道と輸送』)。

                       武州荏原郡 南品川宿

                           前々御伝馬地子免(引欠カ)

一、高二拾五石                    当午引戻 盛十

   此屋敷反別二町五反分    此取永四貫文    反永百六拾文

                             北品川宿

                           前々御伝馬地子免引

一、高二拾五石五斗                    当午引戻 盛九

   此屋敷反別二町五反分    此取永四貫文    反永百六拾文  (下略)

 また幕藩体制下の問屋場は、維新後には伝馬所と改称され、駅伝に従事した問屋役・年寄役も、明治元年六月には、宿・助郷のうちより選ばれる伝馬所取締役(二人)とした。翌二年四月には、この取締役をば、元締役と改称し、苗字・給米を廃止した。代わって地方官が取締ることとし、新たに取締年寄をおいた。同年五月の分担構成を示せば、次の通りである(『品川町史』下巻二四四ページ以下)。

 

一、三人 伝馬所取締年寄勘定方兼但月(朱)給金七両ツツ 桐ケ谷村 名主 宇右衛門

                           北品川宿 名主 正作

                           同宿   年寄 又七

 

                           同宿   問屋見習 源太郎

一、年寄 拾二人 内六人 人馬方           北品川宿 年寄 利兵衛

                           歩行新宿 年寄 寛一郎

                           下大崎村 名主 助之丞

                           雪ケ谷村 年寄 賢三郎

                           北蒲田村 名主 森四郎

 

一、勘定方年寄 三人 但月(朱)給金五両ツツ     南品川宿 年寄 忠一郎

                           女塚村  年寄 佐五右衛門

                           市ノ倉村 名主 与惣兵衛

 

一、六人応接方 内三人見習 但月(朱)給金五両ツツ  南品川宿 年寄 善兵衛

                           同宿   名主見習 直太郎

                           歩行新宿 年寄 周蔵

                           北品川宿 年寄見習 庄平

                           池上村  年寄 力三

                           上蛇窪村 元名主 僖一郎

一、伝馬所下役肝煎 但月給金三両ツツ         北品川宿 元帳付 鉄蔵

 なお、従来問屋給米二拾六石九斗が交付されていたが、明治三年二月に廃止され、代わって一駅に米三〇石が給与せられることとなった。貫目改所も問屋場と同じく従来のままであったが、東海道では、品川・静岡・熱田・大津におかれている。明治元年六月三日、駅逓司より各駅に秤を設置することが許可され、同三年二月駅法改正と同時に「貫目定則」が発布された(詳しくは、『品川町史』下巻、二四四ページ以下)。

 ところで、「一円助郷化」方針の放棄と、定立人足・定助郷への復帰は、輸送手段や輸送業務全体にも大きな影響を与えてゆく。しかも、継立業務の管理・運営がひきつづき政府や地方官の責任においておこなわれている限り、明治政府の財政的負担は増大する反面、輸送の非能率は解消しえなかった。商品・貨幣経済の進展と駅郷住民の抵抗とによって、宿駅制度は漸次変容を余儀なくされ、継立業務の民間委託・特許へと移行してゆくのである(山本弘文『維新期の街道と輸送』)。