陸上運輸と同じく、維新直後の信書伝達の方法も旧制のままであった。幕藩体制下と同じく飛脚に託したのである。明治六年七月六日には、公用状の無賃逓送は禁じられ、各地の飛脚賃銭が定められている。翌八月には、定飛脚問屋の請願で、東海道東行の定期便は毎月二・五・八の日、西行は二・六・九の日、上下合して一八回、毎回本馬四疋・行李七二駄とし、急行便では東行二・五・八の日、西行三・四・六・九の日で上下合して二十一回、毎回本馬一疋などの通行を許可されていた(『品川町史』下巻、四〇八ページ以下)。しかるに、かかる方法では、賃銭は高価にならざるをえず、明治三年ごろ、民部省租税権頭に登用された前島密によれば、東京・京都間の官庁文書の飛脚便運送賃が月に、一、五〇〇両もかかったといわれている、それで政府管轄の郵便制度の設置を着想してゆく(『東京百年史』第二巻)。かくて、翌四年一月に太政官から「継立場駅々取扱規則」「書状を出す人の心得」「各地時間賃銭表」が布達され、東京―京都は(五刄まで)七二時間で一貫四〇〇文、東京―大阪は七八時間で一貫五〇〇文とした。さらに翌二月八日には郵便標旗の制定や、郵便役所・書状集箱置場が設置され、三月一日から、東海道各駅で新式郵便の取扱が創始され、書状賃銭四種が発行された(『郵便百年史年表』)。区域内での品川郵便取扱所は、明治四年に、問屋場・貫目改所などと同じ南品川宿三丁目に設置され、翌五年から品川郵便局と改称している(『品川町史』下巻四二一ページ)。