明治二年九月七日、当時神奈川県判事であった寺島宗則が電信建設を建議しているが、翌九月にはフランス人モンブランが神戸・大阪間の電信建設を出願したので、同年十二月には、政府としては、電信の官営を決定している。翌三年八月の横浜燈明台役所と横浜裁判所との間の電信架設を創始として、九月十九日から横浜裁判所(神奈川県庁の意)内の伝信機役所を起点に、東京築地運上所との間に電信架設に着工した(『郵便百年史年表』)。この場合、品川宿を経由しており、同年十二月二十五日から公衆電報取扱が開始された。品川も、この取扱区域に含まれ、代銀は「カナ一字ニ付、価銀一分ノ割合」で「急届 銀八匁」という規定であった。同時に伝信機役所は伝信局と改称されたが、明治六年には電信取扱規則を、翌七年には電信条例を定め、さらに明治十二年には万国電信連合条約に加盟してゆくのである。