品川宿周辺

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明治維新という制度上の変化があったからといって、急に品川宿およびそれをとりまく村々に大きな風俗上の変化がおそったわけではない。

 しかし、ここ品川宿は江戸・横浜間の陸上交通の場になっていたから、外人の往来は幕末から見なれているし、多少は文明開化の風に吹かれていたことはたしかである。

 品川宿そのものは、維新後急激に政府役人、いわゆる官員さんの動きに対する仕事が多くなり、さらには伝馬の廃止、郵便の実施、飛脚の変身、鉄道の開通、小学校の開設など、あらゆる面での打撃が急速に襲い、加えて経済的には娼妓解放という決定的打撃に、毎日がどうなってゆくか不安の日日を送るの状況にあったが、やがて工業立国の趣旨から官営工場の品川進出などで、変化をとげて行く方向を見出した。

 周辺村々は純農村的状況で、昔通りに農業を営み、東京市民に野菜を提供する江戸時代的生活の延長がつづけられたとみてよい。村人の日常生活への決定的な文明開化による打撃は、新暦へのきりかえ、明治五年十二月三日をもって明治六年一月元日とするという布告によって与えられた。

 元来農作はほどんと旧暦に基づいて農作業が行なわれ、旧暦で主な行事が行なわれた。それが外交上、対外的に新暦でなくては不便だという点で改暦となったことが、逆にあらゆる点で、農民に影響を及ぼすことになったといえる。