維新後の品川の宿場の変化で、直接大きな打撃をうけたのは芸者たちである。飯盛女の名で、吉原に匹敵する遊女がいた関係上、この宿に出入する芸者は文字通り芸をみせて、客と飯盛女の間をとりもつ、いわば男の幇間のようなもので、他の市中町々における「芸妓」といったものとは全く異なり、「旅籠屋へ止宿の旅人有レ之節、被二相招一酌取致候迄之義に付、東京市中の芸妓共と相違、花美に致候者には無レ之」(明治四年芸師取締見込)状態であった。そのため、宿場の盛衰により直接影響を蒙る人々であった。
維新政府にかわって、政府は、一般に幇間を男芸師、芸者を女芸師とよんだが、これは公文書上の名称で、一般には従来通りであった。元年の調べでは三二人の芸妓があったという。
ひと座敷にひと組の二人でつとめるのが慣習であったが、玉代の半分は水茶屋へ渡し、本人所得のうち二割を旅籠屋へ座敷料に払い、旅籠屋はそのうち二割を名主年寄へ、一割を座敷取扱の者へ払ひ、見番をおかずに「箱廻し」で代用していたという。しかし旅籠屋の座敷料は慶応三年相場が下落し、ひと座敷一人一朱を銭五百七拾二文と押さえて勘定をすることになり、間広(まびろ)旅籠屋と小間(こま)旅籠屋との間に、この問題で紛議がおきたが、四年正月、小間旅籠屋側が折れ解決した。さらに四年になって、宿入用、町経費負担額のうち、臨時費の割合について、品川宿と内藤新宿との間に紛争がおき、新宿では臨時費と貧民救助金として一年に一、〇〇〇両を積立てることを申し出て、そのうち、「芸師」芸妓、幇間より冥加として惣高の三分を出すことをきめた。このように品川宿は維新後も大きな問題をかかえ、経営に苦慮しながらも旅籠屋の維持にそこを中心に生活する人々のいろいろ協力があったわけである。
しかし、何といっても大きな打撃は、品川県廃止後の明治五年五月の品川・横浜間の鉄道開通と、ついで起こった娼妓解放事件である。
それより以前、三月にはすでに伝馬駅制の改革があり、宿場の人々の生活上に大きな変化のくることを予想せざるを得なかったのであるが、鉄道の開通は、東京の人々を「ここを素通りさせる」といった現象を呈し、いっそう動揺するようになった。そこえ娼妓解放という事件が起こり、ダブルパンチをくわされた。