明治五年五月七日、この日こそ品川にとって忘るべからざる日で、鉄道が横浜まではじめて開通した日である。芝金杉の人々が鉄道を東海道に通すことに反対したように、品川の宿の人々も宿場がさびれると大反対したため、駅はついに品川の宿場に設けられず、高輪に設けるのやむなきに至った。そのため品川駅は今では港区内にあるわけである。それでも、品川の人々にとって「開通」は、宿場にどう影響があるか不安な気持ちがあったとはいえ、文明開化に対する大きな喜びであった。最初は上り午前八時と午後四時に横浜発、三五分だったが、間もなく川崎と神奈川の駅ができ約四〇分で品川に到着、下りも午前九時、午後五時の二回品川発であったのが、大好評のため、まもなく朝昼夕三回の往復に改められた。しかし、横浜通いには多少影響あったものの、まだ当初東海道を関西に向う人々は、やはり徒歩交通が多かったから、影響は少なかった。「品川入口銕路上橋辺ニハ幾多ノ古草鞋ヲ脱棄、数日雨ニ打タレ泥ニ塗レテ、恰モ塵芥ヲ棄ル場所ノ如ク甚不潔ヲ極ム」(明治五年五月新聞雑誌四六)という状況が、よくそれを示している。しかし、汽車が九月に東京新橋から横浜へと直接出るようになると、関西や東海地方に行く人も、神奈川なり横浜まで、とりあえず汽車で行く人が多くなり、交通の関門としての品川の宿は大きく影響が出はじめた。そこえもってきて五年十月の娼妓解放令が出たのであるから、品川宿は全く青天の霹靂(へきれき)で、旅客の止宿は減少につぐ減少となり、東京人の遊びにくる者も絶え、全く手のほどこしようもない状態だった。これが、再び解放令がゆるんで旧に復するまでには、そう年月は要しなかったが、交通上の宿駅としての品川でなく、貸座敷のある品川としての再生より外に仕方がなかったのである。飛脚の郵便制度への切りかえで、別にのべたように、宿場を通る飛脚屋のなつかしい姿も間もなく消えさり、駅馬賑わうといった光景も衰えていった。