マリア=ルス号事件

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品川の宿場ばかりか、いろいろそれをとりまく村々にまで、大きな影響を与えたのは、明治五年十月二日の娼妓解放令であろう。

 娼妓とか遊女といわれている人々が、人身を抵当物件として金を借りる―年季のある売買といえるものであることはいうまでもない。その娼妓解放のきっかけをなしたのが、マリア=ルス号事件である。

 南米ペルーの奴隷買船が、当時の清国人を厦門で大量に購入して、ペルーへ行く途中横浜に寄った。その時清国人の一人が海にとびこんで英艦にこれをうったえた。日本側は報せをうけて調査したところ、マリア=ルス号に清国人が奴隷として二三〇名も乗っていることがわかった。そこで日本政府としては、大江卓神奈川県権令の意見で、裁判の結果、八月二十五日全員を釈放させ、清国側にひきわたした。これで一応は解決したが、おさまらないペルー側が、これを不当として国際仲裁裁判にうったえた。そのためロシア皇帝を裁判長に、日本とペルーが法廷で争うことになった。これがマリア=ルス号事件である。ペルー側はこの事件に関係させて、日本における娼妓身売りは奴隷売買であり、日本にも奴隷があるではないかと、マリア=ルス号の艦長エロルデが主張、国内に人身売買を許しながら、外国における奴隷売買を禁ずることの不当性が問題になった。