これに参った大江は、裁判に負ける可能性が充分にあったので、娼妓をすべて解放し、形の上では「年季売買」といったものを全くなくさなければ日本に不利であると建白した。大蔵省も井上大蔵大輔の名で、七月末に大江の説を支持して建白、八月にも再度、芸娼妓の身売り廃止を正院に申し入れた。政府もすてておけず、十月二日、上から天下り的に娼妓の解放を命ずる布告を行なった。
品川宿どころか、日本中のこうした遊所にとって驚愕に値いする大事件だった。「人身ヲ売買致シ、終身又ハ年期ヲ限リ、其主人ノ存意ニ任セ、虐使致シ候ハ人倫ニ背キ、有マジキ事ニ付、古来制禁ノ処、従来年季奉公等種々名目ヲ以テ奉公為レ致、其実売買同様ノ所業ニ至リ、以ノ外ノ事ニ付、自今可レ為二厳禁一事」という布告の内容は、それだけで旅籠屋や楼主たちをたたきのめすほどの威力があった。しかも「娼妓芸妓等年季奉公人一切解放致スベシ、右ニ付テノ貸借訴訟総テ取リ上ゲザル事」という命令は、いわば借金棒引き令で、全部御破算にすることであった。
司法卿江藤新平が断乎としてこの法令を実行させた。娼妓は人身の権利を失っている人たちで、牛馬に外ならない。人から牛馬に物の返済を求める理由はない。今まで娼妓などに貸した金銭はすべて返済を求めてはならぬといった解釈で、借金いっさい棒引きにしたので、人よんで「牛馬きりほどき」といった。これにより、娼妓・抱え芸者・酌取等はすべて身受人か親元へ帰されることになった。
しかし、下からの運動がもり上がって解放されたわけではない。突然の出来事から、アッという間に天下り的に娼妓解放令が出されたため、吉原や根津の遊廓、あるいは品川をはじめ、新宿・千住・板橋の四宿では、それこそ大変な騒ぎであった。だが、解放された女の方にも心配があった。明日にも生活に不安な、みよりのない者も少なくなく、どうしてゆけばよいかわからなかった。