宿場の衰微

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そこで府としては、吉原・根津・四宿だけは、解放された女性のために残しておく方針をとり、遊女渡世規則をつくって、生活にこまる女たちの自発的営業を認めることにした。解放した以上、遊女的なものはないはずだ。それゆえ今まで遊女をしていた者で、再び遊女になりたいと願い出たものには鑑札をわたし、その遊女が客と座敷をかりて遊ぶ、その飲食を「貸座敷」が提供するのはさしつかえないといった規則を、にわかごしらえで定めた。この規則では、遊女はいつでも自由に店を出てよいし、廃業してもよい、また芸者はどこえいって営業してもよいといったもので、画期的な処置であった。もちろん解放令は全国に出されたものだが、とくに東京・横浜に中心点がおかれていたため、この事件が一段と大きく市民にうつったのであった。この法令が出ると、東京における前記各花街の打撃は大きかった。吉原をはじめ四宿は全く三味線の音もきかれないほどのショックだった。

 品川宿のさびれ方も、あまりに突然だったため、より一層深刻だった。当時品川には遊女屋と名のつくもの六八軒、遊女六九二人、芸妓八人といった状態で、これが全部解放されたから、手のほどこしようもなかった。実質的には吉原につぐほどの繁栄で、女の数では根津遊廓をはるかにしのぐ勢だった品川の宿場も、灯の消えたようなさびしさになり、「絲竹ノ音ヲ絶チ、俄カニ冬枯ノ景況ヲナセリ」(新聞雑誌)といった状況だった。

 維新の混乱が少ししずまり、たち直った東京は、これから活気を呈そうというときに、この法令が出たため、市中は「借金棒引き」の花街が、まず「荒涼たる」有様になってしまった。

 この解放令は文字通り人身売買を禁止したのであって、娼妓芸妓の営業を禁止したわけではない。それにもかかわらず一挙に花街が不況になったのは、やはりショックが余りに大きかったためである。

 品川の宿(しゅく)は、汽車が開通して大きな変化がくると人々が心配しているときに、やつぎ早にこの「解放令」が出たから、いっそう不況感が間近くせまった感があった。品川宿中が飯盛女の盛大で繁昌していた土地だけに、商家は小商いの商人が大部分、荏原の村々と違い、農業も本業でなく、すべての者が遊廓にたよるか、そのこぼれで息をついているといった町だった。それが一時に「娼妓解放」のため、全部が商売の道を断たれたようになって、全くお手あげだった。

 娼妓たちの方も同様で、突然解放されても東北方面から売られてきた者が多かったため、国の親もとえ帰るどころでなく、どうしてよいかわからぬ始末で「中ニモ身元ノカヘルベキナク、情客ノ依ルベキナクシテ、再ビ媚笑ヲ売ル者最モ夥シ」(新聞雑誌)という状況で、外に生活してゆくことができない状態だった。


第16図 娼妓解放文書