貸座敷制度

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もちろん、突然上から解放されたのである。楼主たちが貸座敷という名のもとに、何とか解放された女たちと客とによって、旧来通りの営業を維持しようとしたことはやむを得ないことだった。しかし女の方も同様で、余りに突然に解放されたため、明日の食糧のあてもなく街頭になげ出された形になったため、身のふり方をどうしてよいかわからず、生活のあてもない人々は、さりとて帰るべき家もないものが多く、むしろ密淫売によって、それをささえようとするのは当然のなり行だったのである。そのため、東京府としても、このまま放置すれば重大なことになる。悪い病気も蔓延する恐れがあるとして、急に対策をたてる必要にせまられ、当局を動かして対策をねることになった。政府も結果がこうなろうとは考えもしなかった。むしろ芸娼妓はこれによって借金がなくなり、自由の天地にのびのびと進めると期待したらしい。貸座敷の規則制度をつくったほか、自由に営業もできるように遊女渡世規則、芸妓渡世規則をわざわざ作ったくらいである。万一のときはこれによって生活させようとしたのであったが、すっかり逆効果になって彼女たちの生活をおびやかす現実になってしまった。

 一方市民―特に男性たち―は十分にこの解放令の何たるかを理解せずに、ただ現象面だけをうけとったから、不満の声は次第に高くなり、私娼密淫売の横行目にあまるくらいなら、昔の公娼制度を存置しておいた方がずっとよかったと復活を希望する声が高かったのも事実である。

 

先般娼妓解放ノ令アリシヨリ、其旧弊却テ市間ニ流布シテ満府密売婦ノ盛ナル、頃日ニ至テ極レリ。夫ハ妻ヲ販ギテ口ヲ糊シ、母ハ女ヲ売テ米櫃トナシ、路次長屋ノ隅々ニハ必ズ一、二軒密売所アリ、当節官ヨリ厳ニ手ヲ尽サルル由ナレド、恐ラクハ邏卒番人等ノ目モ行届カヌ事アルベシ、又府庁ノ裁判ニモ姦通ノ罪科十ノ七ニ居レリ、慨クベクニ堪ヘタリ。寧ロ芳(吉)原根津等従来ノ遊里ヲ繁昌セシメテ、公然遊楽ノ地ヲ開キ、側ラ密売厳禁ノ令ヲ下シタランニ如(し)カジト、或ル一老実翁ノ話ナリ。(新聞雑誌六年八月)

 

六年も秋ともなると、こうした状態からして府もどうにもならず、表向きの解放令はそのまま実際には、旧に変わらぬ姿となり、三規則とは実体を異にすることになってしまった。


第17-1図 引手茶屋鑑札


第17-2図 貸座敷鑑札


第17-3図 娼妓鑑札


第18図 明治33年警視庁が制定した貸座敷 引手茶屋 娼妓取締規則

 品川の宿における一時的衰退や悲観論も、逆にこのために解消するという結果となり、明治六年の十二月十日新たに貸座敷渡世規則および娼芸妓規則が制定され、娼妓が本人の希望で渡世したい者には鑑札を渡し、今までの楼主は座敷を貸して客と遊ばせるという形をとり、貸座敷営業の者は月五円、娼妓は月二円の鑑札料を払うということになった。

 このため、ようやく、品川宿も蘇生の思いで、活気が出てきた。たとえ貸座敷という名のもとでの営業とはいえ、旧に復する状態がおとずれ、再び繁栄をとり戻していったのであった。

 維新後の品川を中心とする周辺の村々が、やはり農村として、あるいは一部は漁業をもって、旧態の生活をつづけてゆくよりほかはなかったといっても、品川宿には西南戦争前後から、次第に工業の先駆的な官営工場が設立され、それが民間に払い下げられて、工場らしい姿になっていったことも、職人・工員たちの遊ぶ貸座敷の風景が、品川を新しく蘇生させていったといえよう。そこには江戸時代のような「江戸の市民の豪遊散財」という形とは違った、大衆による遊所としての復活の姿があった。