ランプからガス燈へ

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江戸時代の建築は意外に室内が暗かったことは事実で、そうした暗さを維新後改める方法がいろいろ工夫されたことは、一つの文明開化であった。

 幕末から維新にかけて蝋燭をつけられる家というものは、品川宿の遊所の主な家とか本陣、その他宿駅の役所関係のところぐらい、村方では名主の家でもやはり行燈だったという話もある。一般村民たちはどんなに暗い夜の生活だったことであろうか。

 江戸時代の夜の生活は上層部においては蝋燭というものがあって、明るい生活を比較的享受できたが、下層階級においては、やはり行燈のみが頼りの暗さをどうすることもできなかった。便所が一軒の家にない場合が長屋の大部分であったから、屋外の便所へ通うことは非常に暗さの点でつらい生活であったといえる。しかし、石油の入ってきたこととともにランプをつけるようになった。その明るさは驚歎に値いするものがあったといえる。

 安政開港後、外国からランプが輸入され、珍しいのと明るいのとで、江戸・横浜の遊所や商家などで使用する者があり、品川の遊廓などでも、ランプを使用して、客の注意をひくようにしたらしいが、これは維新後次第に各家庭に入り、品川の一般家庭でもランプを使いだしたのは、五年か六年ごろからのことという。どんなに明るい夜の世界になったことか。石油を使ってその明るさには目を驚かすものがあったとはいえ、そのホヤの掃除は大変厄介なものだった。その上火災の原因になることがたびたびで、府のそれに対する取扱いもやかましかった。

 ガス燈は府知事由利公正が、外国から器機を入れておいたのを、銀座煉瓦街ができるようになって、ペルグランに頼んで、芝に工場をつくり、銀座一帯、さらには万世橋へとガス管をのばしていった。その反対方向にあった、品川宿にはただちにガス燈がつけられることはなかったが、やがて、品川に白煉瓦の製造が行なわれ、主としてガス竈用(かまど)であったところから、ガスの「明り」として品川区民たちの利用にむすびついていった。電燈よりまず先きに品川宿などではガスが明りとして使用され、大変な人気だったという。