ガス竃用白煉瓦の製造

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建物そのものも維新後は新しい商工業を営む上では洋風化が必要という問題があり、工場建設、会社設立に煉瓦を利用した近代建築が行なわれるようになった。銀座煉瓦街建設の煉瓦製造は区内にも大きな刺戟を与えた。

 ちょうどこの時、燈火用のガスを東京府営繕会議所が経営することになり、ペルグランが耐火煉瓦の原土を高崎在の乗附村に発見、それを利用して東京営繕会議所でも試みに深川工作局内に工場をつくり、白煉瓦を焼いてガス竈をつくろうとした。それがどれだけの成績をあげたかはわからぬが、やがて十六年四月西村勝三は自らその貸下げをうけ、別に独自に芝のガス局の傍に土地をかり伊勢勝白煉瓦製造所を設け、やがて深川工場の払下げをうけて深川工場と芝浦工場を合して製造を行なった。二十年十月北品川御殿山下に工場をうつし、品川白煉瓦製造所としたのであるが、この白煉瓦は当時ほとんどガス竈用に焼かれたので、ガスというものが「明り」として東京市中から隣接町村にまで次第にのびてゆくうえに役立ったのである。のち明治三十六年六月株式会社に改め、品川白煉瓦株式会社と称したのがこれである。