品川硝子製造所は、明治六年、三条実美等が創設、九年の四月には工部省が買上げ、十年、品川工作分局と改称、官営工場にしたが、赤字つづきのため民営にする方針にきりかえ、十七年二月には西村勝三・稲葉正邦らが「借用」という形で経営したが、好結果を生むことができなかったという。西村らが正式に払下げを受けたのは十八年五月のことである。
官営の品川工作分局時代、後の色ガラスの製造家として知られた島田弥市が、ここを訪れて見習となった話は有名で、かれは最初無給で勤め、三ヵ月後に日給八銭を給せられたという。かれの想い出によると、当時板ガラスのほか、ひと通りの器物をつくり出していたという話である。
品川ではガラス工場としては経営的に不振であったとはいえ、そこで技術を習得した人が全国へ散って、そのガラス製造を行なったことは、日本のガラス普及に大いに役立った。その意味での品川ガラス工場の意義は大きい。しかし明治の市民生活を大きくかえた一つはこのガラスである。従来の障子というものの外に、やがてガラス戸またはガラス入り障子ができて、室内の明るさがよほど違っていった。しかしまだ多くは外国からの輸入にたよる点が大きかったようで、ランプのほややコップも多くは輸入にたよった。品川の妓楼にガラスが入り、明るさに加えてランプからさらにガスがひかれたとき、それはもう明治後半期でのべるように、華やかな品川妓楼全体の恢復期だったのである。