大衆交通機関

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東京・横浜間を汽車――当時の人々は岡蒸気とよんだ――が走るようになって、品川を通過する人が多くなったとき、これを救い、補うかのように人力車の大流行があり、品川の駅を中心にして、四方へ走る人力車が人気の的になった。その独特の「車屋さん」とよばれるスタイルが、また人力車とともに明治の初期をかざる文明開化の一つのシンボルであった。

 その上に、一般には縁遠い貴族か外国公館の人たちの乗り回していた馬車が大衆化し、乗合馬車というものができた。多くの人々にとって、どんなに便利でもあり、あこがれの的であったことであろう。

 品川区内にはじめて乗合馬車の通ったのは明治二年、新橋・横浜間に四月から乗合馬車の営業が開始されたときといわれている。