人力車

121 ~ 122

明治初年における文明開化的様相を一番よく語るものは人力車であろう。

元来、品川宿は駕籠の幅をきかすところで、維新後も辻駕籠は営業を継続し、宿場らしい姿であったが、これを打破ったのが人力車の出現である。

 人力車は日本橋の高山幸助と和泉要助が、明治三年三月官許を得て製造したのがはじまりというが、秋葉大助も製造に従事、次第にその数を増していった。このため、品川でも三年八月には二軒の人力を営業するものができ、好評で、人力営業の者が増加し、駕籠は全く市民から見棄てられる存在になり、江戸以来の宿場ときりはなせぬ縁のあった駕籠は、自然になくなってしまった。

 人力車の流行はすさまじく、文明開化東京の代表のように走り回り、品川でも明治二十一年の調査には南品川宿九〇、二日五日市村六、猟師町一という数字は南品川だけの記録で、どんなに人力車が歓迎され、流行したかがうかがえよう。